乎加神社
おかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】乎加神社 近江国 神崎郡鎮座

   【現社名】乎加神社
   【住所】滋賀県東近江市神郷 9
       北緯35度10分36秒,東経136度11分4秒
   【祭神】豊遠迦比売命 (配祀)白山比売命
   【例祭】4月9日近い日曜日
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年月不詳
       天智天皇の御宇勅宣で創立という
       明治2年乎加神社と改称
       明治9年10月郷社
       大正5年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】古代湖東地方の王
   【祭祀】江戸時代は「宇賀神社」「宇賀大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造檜皮葺
       本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもの
       幣殿・拝殿・神輿庫・水鳳舎・社務所

   【境内社】日吉神社・熊野神社・野上神社

隣接して神郷亀塚古墳があり、古代湖東地方の王の墳墓とされ、平成12年12月からの第2次調査で3世紀前半の最古級の古墳で前方後方墳とされた。古墳は邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく)の王墓とする説がある。
明治22年(1889年)の伊勢の神宮(伊勢神宮)遷宮時に別宮の社殿を譲り受け、明治25年(1892年)に移築された本殿や、拝殿・幣殿・祝詞殿・手水舎・玉垣が国の登録有形文化財に登録されている。


乎加神社

当社は豊遠迦比売命、白山比売命を祀る。抑もこの御神は神代に五穀蚕麻の原種を授け給ひし神なれば世の人その恩頼を蒙らざるはなかるべし当社は延喜式なる神崎郡二座の一にして人皇第十九代允恭天皇の勅によりてここに奉斉せられしと伝えられ古来皇室を始め領主の崇敬厚く郡名を神前と称え郷名を神主といひ村名を神郷と呼ぶこと何れも本宮のこの地に鎮座あるより起れりと云う。

社頭掲示板



神郷亀塚古墳

滋賀県能登川町・神郷亀塚古墳
最古の前方後方墳で木槨墓確認
●滋賀県能登川町 神郷亀塚古墳
●2003年2月15日 現地説明会/能登川町教育委員会
 3世紀前半、最古の前方後方墳とされる神郷亀塚古墳の主体部が調査され、木槨2基が東西に並んで確認されました。東槨は幅1.3m、長さ4.6m、高さ1.2m、西槨は幅1.15m、長さ3.5m、高さ1.1mで、板材を積み上げた側壁に蓋板がのっていた様子が土層から観察されます。また、盛り土と墓穴からは小さく砕かれた土器片が数百点出土しました。古墳の西側には祭祀跡と見られる柱穴群や土壙、また墓守の家と見られる竪穴住居も見つかりました。周濠埋没後、隣接して式内社である乎加神社が築かれており、この一帯が支配者一族の祖先をおまつりした聖域であると見られます。
墳丘西側の柱穴群と土壙
隣接する式内社・乎加神社。本殿は伊勢神宮遷宮の払い下げで古い様式である棟持柱が残る。

http://obito3.hp.infoseek.co.jp/zingoukame2.html



乎加神社

允恭天皇の皇妃衣通姫の祈願奉請によって鎮祭されたものと伝えられ、延喜式小社に列している。天智天皇より神領を賜はり嵯峨天皇は神宮寺を建てられ社寺領三百石を賜ったという。江戸時代には太田氏の崇敬篤く、社殿造営のことがあった。大正5年県社に加列する。

滋賀県神社庁



乎加神社

乎加神杜は、神郷・長勝寺、佐生、佐野の産土神で、平安時代の「延喜式」に記された神崎郡内ではもっとも古い神社です。祭神は豊遠迦比売命と白山比売命をまつります。
本殿や幣殿は、明治25年に建てかえられ、とくに本殿は伊勢神営の祭殿とおなじ三間×二間の神明造りで、両側の地面から直立した柱によって屋根が支えられているのが特徴です。弥生時代の神殿とされる大型堀立柱建物は、このような建物ではないかと考えられています。
乎加神社北側の神郷亀塚古墳は、平成12年度からの発掘調査で、3世紀前半に造られた日本最古級の前方後方墳と判明しました。
東近江市

社頭掲示板



乎加神社

乎加は假字也○祭神宇賀御魂命○神郷村に在す(以上與地志)

神社覈録



郷社 乎加神社

祭神 豊遠加比売神 白山比売神
一説祭神宇賀御魂命とす(神名帳考証、神社覈録、與地志略)、創祀の年代詳ならずといへども、天智天皇の朝、竹林の郷を杜領に寄進し給ひきと伝ふれば、其以前既に鎮座ありし事を知るべし、醍醐天皇延喜の制小社に列せらる、一に宇賀神社とも称し、維新前までは、鳥居の額に宇賀神社と記載したりしが、明治2年に至り乎加神社と改む、森村斗村長勝寺村佐生村の産土神なり、明治9年郷社に列す、境内3630坪(民有地第二種)、社殿は本殿、拝殿、中門、神輿含、祀詞殿、嗽水含。社務所、炊殿、制札所、階廊等の連物を有し、地琵琶湖の東方丘綾に位し、古林鬱蒼頗る旧社の観あり、其西北に亀塚あり、傘松蛇樫等の珍木多し、因に記す、温故録に曰く「此神影向の次第は、昔大和国旧瀬川の邊に柄みける太麿といふ人、所縁やありけん、夫婦眷属ともに引き伴ひ、此の佐野の庄に来り住む、妻は秦氏なりといふ、子七人あり、甚貧しけれども、賢にして世に敬せらる、一夜夢に字賀明神に謁す、夜明に見れぱ庭中忽然と大杉七本生えたり、井水を汲めぱ酒泉となり、井梧枝乖れて金の子を生す、是より次第に富貴の大福長者となる、即ち杜を建立して此霊神を崇め奉りけり、故に神郷と云ふ云々」と。

明治神社誌料



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