近江鉄道朝日野駅東にある。平地。田の中の神社。叢林よく目立つ。蒲桜の跡の立て札がある。 |
由緒 人皇代十代崇神天皇の七年(皇、570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。 成務天皇5年10月(皇、795 西、135)蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に く、欽明天皇(皇、1205 西、545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇15年2月百七才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。 天智天皇7年5月(皇、1326 西、666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日陰蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大甞会ある毎に献納するを例となす。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
竹田神社 神像2体、平安初期の作か 竹田神社 盗難で点検、新特徴 盗難に遭った後、今月1日に発見された滋賀県蒲生町・竹田神社の重要文化財の神像2体が、従来の説より200−300年以上さかのぼる平安時代初期に作られた可能性のあることが、10日までの文化庁などの調べで分かった。盗難に伴い傷の有無を調べる過程で、制作時期を推定する特徴が見つかったためで、神像を預かった琵琶湖文化館(大津市)で詳しく調査する。 神像は「男神座像」。高さが一体は19・4センチ、もう一体は27・5センチ。ヒノキの一木造りと見られ、1911(明治44)年に重文指定を受けた。その際、鎌倉時代の作と推定されたが、県教委によると「信仰の対象のため、これまで詳しい調査ができていなかった」という。 神像は発見された後、再度の被害を防ぐため、一時的に琵琶湖文化館に預けられた。文化庁の調査官と館の学芸員が調べたところ、平安時代初期(9世紀ごろ)の仏像に多く見られる「翻波式衣紋(ほんぱしきえもん)」が衣のひだに施されていることが判明した。9世紀の作なら県内の神像では最古級となる。 琵琶湖文化館館の土井通弘学芸員は「これまでは写真しか資料がなかった。今後、材質などを調べたい」と話し、竹田神社の安井秀明宮司は「もともと外に出すものではなかったが、そんなに古い像だったとは」と驚いている。 京都新聞 2003.9.11 |
竹田神社 蒲桜の跡 昔ここに蒲桜(正式にはなく、吉野桜のような山桜)が美しく咲いていました。鋳物師の天正・慶長の頃の古い記録「稲寸古記」には「今宮田の馬場に桜多く有、西明寺時頼入道此社に集籠あり、歌に 近江なる桧物の里の蒲桜 □る人もなき秋のくれかな 其後、当郡西明寺(日野町)へ此桜を移せしとあり」と書かれています。 昔、馬場の南側は宮田で、お田植え祭が行われ、そこには多くの蒲桜が咲き、桧物の里(鋳物師から東南の地)の蒲桜と歌にまで詠まれた程有名でした。 平成6年 師史の会 社頭掲示板 |
竹田神社由緒略記 当社は、人皇第十代崇神天皇の7年(皇紀570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創建遊ばされた。千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。 成務天皇5年10月(皇795 西135)蒲生稲置菅掌の地は、東化の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。3麿は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に広く、欽明天皇6年(皇1205西545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇15年2月107才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。 天智天皇7年5月(皇1326 西666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命にょり朝日1山より日蔭蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大嘗会ある毎に献納するを例となす。 桓武天皇の延暦16年(皇1457 西797)坂上田村麿、当社に武運長久を祈り本殿を再建す。 寛仁元年3月(皇1677 西1017)後一条天皇、当社々殿を今の地に造営し、御遷宮の典を挙げさせられ、勅使藤原李忠を遣はし幣帛を奉り給ぶ。 御冷泉天皇の天喜4年(皇1716 西1056)大神主頼俊、野部勘六に鋳物師統領職の綸旨を給ひ、大日本鍛冶鋳物師の統領となる。 元暦元年(皇1844 西1184)源頼朝当社に使者を遣はし武運を祈る。 後鳥羽上皇、当社に御参寵遊ばされ、野部、増倉と共に刀を打たせ給ひ、 今もなほみわざならひて剣太刀 打つべき人の祈る神垣 と御製を献じ給ふ。 康水3甲申年(皇2004 西1344)足利尊氏石灯範を寄進す。 文亀3年(皇2163 西1503)兵火に罹り、拝殿、回廊、宝庫炎上したるにより、蒲生貞秀〔智閑)再建す。又不思議の神助ありとて神田を寄進す。爾来蒲生家代々の崇敬厚く、天文11年(皇2202 西1542)蒲生下野守賢秀本殿を再建し、天正2年(皇2234 西1574)蒲生氏郷、神領百五十石並、狛犬一対を寄進す。 天正年間、豊臣秀吉当社に参拝し、神能を奉献す、現在当社に伝ふる「菅田」の能これなり。 慶長6年2月(皇2261 西1601)豊前小倉の藩士伴治左衛門当社に参拝し祭資料を寄進し古式の祭事を復興す。 後水尾天皇宝永2年(皇2285 西1625)2月28日正一位の宣旨あり。 領主市橋家より氏神として崇敬殊の外厚く、毎年1月、4月に領主の参拝あり、月々には家臣をして代参せしめ祭資料を奉れり。 当社の古文書の多くは文亀3年の兵火により湮滅したるも、古来皇室、並武将の信仰厚きのみならず、広く世人の信仰をあつめ、鍛冶、鋳物師等金属製品を扱ふ人達の祖神として、又農耕をなす者の祖神として崇敬するの外、古くより開運繁栄、諸災難除け、方除け、火防、縁結び安産の守護神として信仰する者多く、御神徳いやちこにして、霊験を顕はし給ふこと、あたかも響の音に応ふるが如く、いとも尊き神にてましますなり。 由緒書 |
竹田神社能舞台 東近江市指定文化財 竹田神社能舞台 この能舞台は、明治26(1893)年に鋳物師の竹村猪八郎が、豊臣秀吉の時代に奉納された「竹田の神能」にちなんで寄進したもので、明治から大正にかけて盛んに演能された。 建物は、主に舞台棟。橋掛り・鏡の間棟からなる。 舞台棟は、方一間(5.2m四方)、切妻造、桟瓦葺で、西背面に下屋を付け、後座と溜の間およびその背面に武者走りを設け、北側面の軒下を脇座としている。後座と溜の間を仕切る板壁には若松が、脇座と溜の間を仕切る板聖には太い竹が描かれている。橋掛り。鏡の間は舞台と直角に取り付いており、桁行の柱間が三問(8.1m)、梁間(2.7m)、切妻造、桟瓦葺である。 この能舞台は橋掛りが略式で、鏡の間も狭く、やや簡素な造りであるが、基本的な形式に基づいて造られており、また、県内に現存する能舞台も少なく希少的価値も高い。 東近江市教育委員会 社頭掲示板 |
竹田神社 社伝によれば、崇神天皇の御代明神森の地に創祀し、延暦6年坂上田村麿社殿を再造す、延喜式内の菅田神社は当社であるという。寛仁元年今の地に移し地名竹田により竹田神社と改める。天目一箇命を奉斎するのは古へ毎年9月19日の祭目に稲60穂を伊勢の多度神社に送るならわしがあり、同神の分祀であることを語る古例である。境内に古い石燈籠一基あり康永3年甲申云々と刻するもので、足利尊氏の寄進と伝へている。文亀3年の乱、兵燹に罹り社頭炎上し蒲生賢秀が再建をする。爾来蒲生家代々の崇敬厚く、天正2年蒲生賢秀は神田及び狛犬一対を奉納する。祭礼は4月15日、又祭事として1月15日卜田神事、4月5日田植神事、9月1日稲寸神事、11月8日太刀打神事等あり、豊臣秀吉の時、神能を奉献し「竹田の神能」と称し爾来相伝する。明治32年「菅田」と改称する。慶長6年豊前小倉の藩士伴治左衛門が当社の祭礼の衰退するのをおしみ金一両を寄進する。祭供料と爾後例年奉納する。宝永2年2月吉田の卜部家より正一位の宗源宣旨を受く、明治9年村社に列す、同42年神饌幣帛料供進指定。 滋賀県神社庁 |
竹田神社 竹田神社と円林寺の一帯地域は鎌倉時代から室町時代にかけての日野谷の領主蒲生氏の居城小谷山城の城域といわれている。その頃にほど近い鋳物師村の竹田大明神を勧請したのが創建と考えられる。室町時代中期蒲生氏の本城が音羽城へ移された以降は、蒲生氏の分家であった小谷氏を中心とした村人達が、村の鎮守社として崇敬護持をしてきた。明治の末年にこの付近一帯が蚊屋野公園として整備されて遊客でにぎわった。 日野観光協会・必佐公民館 社頭掲示板 |