比都佐神社
ひつさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】比都佐神社 近江国 蒲生郡鎮座

   【現社名】比都佐神社
   【住所】滋賀県蒲生郡日野町十禅師410
       北緯35度0分27秒,東経136度13分40秒
   【祭神】彦火火出見尊 天津彦火瓊瓊杵尊 木花開耶姫命 武甕槌神
       天太玉神 大己貴神 経津主命 天児屋根神 猿田彦神
       『神祇志料』「蒲生稻寸の祖天津彦根」
       『特選神名牒』「天津日子根命」
       『大日本史神祇志』『地理志料』「蒲生直等祖天津彦根命及山津照命日巣句比当ス」

   【例祭】4月14日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年代不詳
       嘉元2年(1304)宝筐印塔建てられる
       明治15年9月郷社
       昭和6年9月県社

   【関係氏族】蒲生稻寸
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「久野大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       幣殿・舞殿・社務所・神饌所・神樂殿

   【境内社】

田の中の平地。大きな本殿がある。
平安時代には大津坂本の日吉山王社の荘園となり、山王七社の十禅師宮が合祀されその名が村の名として残ったと言われている。
嘉元2年(1304)の在銘をもつ国指定重要建造物の宝筐印塔一基がある。


比都佐神社

弥生時代すでに開けていたこの辺りは古くから「ひさ野」と呼ばれており、幾つかの村の総社として久野の郷を守護する久野大明神がこの地に祀られた。平安時代に大津坂本の日吉山王社の荘園となり、山王七社十禅師宮が合祀されその名が村の名として残った。境内の宝篋印塔は鎌倉時代嘉元元年(1304)の造立で日本有数の優れた石造物として重文に指定されており、春の例祭に奉納し渡御をするほい幡も大変めずらしい。
日野観光協会 必佐公民館

社頭掲示板



比都佐神社

重要文化財
比都佐神社宝篋印塔
所在地 蒲生郡日野町大字十禅師
昭和5年5月23日指定
石造宝篋印塔
鎌倉時代(嘉元2年)
この塔は、刻銘によって、嘉元2年(1304)に造立したことが明らかである。
基礎は、各面とも輪郭を巻き、格狭間を入れ、内側は、東・南二面は孔雀一対、北面は開花蓮、西面は素面となっている。
塔身は、各面とも蓮華座上に、月輪を彫り四仏の種子を配している。笠は、軒付より下に二段、上に七段刻み、隅飾りは三弧、輪郭を巻き、その内側は素面である。笠下端の軒裏には、塔身の周囲に溝を彫り丁寧な加工が施してある。基礎と塔身には左記の刻銘があり、造立の内容も知ることができる。
この塔は、月輪が欠失しているのは惜しまれるが、造立年次が明らかで、規模が大きく、細部意匠の優秀な遺品として貴重である。
平成9年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



比都佐神社

当社ハ創立年代不詳ナレドモ往古比佐郷ノ発生ト共二鎭座セラレタ古社で延喜の制に小社に列セラレ蒲生郡ノ名神ト仰ガレ神威ハ廣ク及ンデ井マシタ中古比叡山ノ勢力ガ大キクナリコノ鎭座地も日吉神社ノ神領トナリ日吉七社ノ一ツ十禅師権現ヲムカへ必都佐十禅師トモヨバレマシタガ日吉ノ勢カノ保護ニヨジカヘツテ隆昌を全ウスル事ガ出來マシタ加フルニ蒲生家始メ武家豪族ノ尊信ト近郷衆庶ノ信仰ヲ緊メ多少ノ盛衰ハアリマシタガ當地方ノ総社トシ榮エテ居リマシタ現存スル國宝宝筐印塔ハ鎌倉時代ノ本社ノ存在ヲ最モ確實二証明スルハ共二他ノ宝物類ト共二地方人ノ厚イ信仰を如實に物語ルモノデアリマス明治15年9月郷社二到シ更二昭和6年9月縣社二昇格シ神徳ハ盆々四方二輝クニ至リマシタ。

比都佐神社由緒略記



比都佐神社

創祀年代不詳。往古往古比佐郷の発生と共に鎮座した古社で延喜の制に小社に列せられ蒲生郡の名神であった。中古日吉神社の神領となり日吉七社の一つ十禅権現をむかえ必都佐十禅師ともよばれたが、日吉の勢力の保護により隆昌をした。加うるに蒲生家始め武家豪族の尊信を得て必佐郷の総社として栄えて来た。明治15年村社に大正15年郷社に列せられ昭和6年県社に昇格した。現在残されている「御官請取日記」によると、応安4年社殿を造営後150年を経た、文明18年に再建、江戸時代に入り享保2年と、文化5年の両年に社殿を造営、しかし明治17年社殿焼失、現在の社殿は明治19年の再建である。

滋賀県神社庁



地名「十禅師」の歴史

私達の集落は、昔から十禅師と呼ばれています。
この地名は非常に古く、室町時代初め応永29(1422)年の記録に、「十禅寺」と見えるのが最も古い紀録ですが、この地名が生まれたのはもっと古く、次のように、平安時代の中頃までさかのぼります。
応和元(961)年、有名な藤原道長の祖父にあたる藤原師輔が死去し、所有地(荘園)の「必佐庄」が息子に譲られました。息子の悠忍は、比叡山延暦寺の境内にあった妙香院の僧でしたが、永作2(990)年に必佐庄の土地が妙香院に寄付されました。この時から必佐庄が比叡山延暦寺の荘園になり、比叡山の守り神の「十禅師社」が、心佐庄内の比都佐神社にまつられたことから、十禅師という地名が生まれました。
十禅師と呼ばれる前の旧地名は、次のような証拠から、「必佐」であったと思われます。
古代の法律に、集落名は漢字二字を事要せよとの決まりがあり、十禅師以前には、漢字二字が集落名に便用されていた様子です。十禅師の土地が古くは必佐庄と呼ばれたことや、延長5(927)年の記録に見える比都佐神社が、今も十禅師の土地にあることが最も大きな証拠になりますが、また、必佐地方や南比都佐地方には、かつて必佐という名前の集落が見あたらないことも証拠になります、
大津の郁にいた天智天皇が、西暦670年に都の候補地として視察した土地が「櫃作野」であったと「日本書紀」に記されているのが、必佐という地名の最も古い記録です。「櫃作、必佐、比都佐」は、すべて「久」の当て字で、「遠く」を意味し、開発の早い近江八幡方面から必佐地方を見れば、「遼くの野(久野)であることから名付けられた地方です、
十禅飾地区には、「久野さん」や「久村さん」が昔から多く住んでいるのも、このような過去の歴史があるからです。
近江日野商人館 館長満田良順氏

社頭掲示板



比都佐神社

比都佐は假字也、和名抄、(郷名部)必佐、○祭神在所等詳ならず
考証に、比津田村と云ふ、與地志、当郡比津田村と云処所見なし、猶考ふべし、

神社覈録



郷社 比都佐神社

祭神
彦火々出見尊 木花開耶姫 天津日子火瓊々杵尊
武甕槌神 天太玉神 大己貴神
経津主神 天児屋根神 猿田彦神
祭神 一説に火雷神を祀るといひ(神名帳考証、或は天津日子根命を記るといふ(神砥志料等)、当祭神に關して特選神名牒に説あり。曰く「今按ずるに、祭神天津彦火瓊々杵尊とあれど、馬見岡の旧社記に、大嵩に対し小嵩と称するは、宝殿嶽彦神山を号し、天彦根命を祀る云々、式内必佐神社の本祠なりと見え、神社啓蒙に、彦根神社在近江國蒲生郡彦根郷、所祭之神一座(一云犬上郡)御津彦根命、樹下山門神系図曰、天照大神與素戔鳴尊所誓生之御津彦根命者、近江國彦根明神也とある御津彦根命は、天津彦根命訛り、社伝に瓊々杵尊と云るも、必ず天津彦根命を誤れるにて、馬見岡社旧記に云る所証あるに似たり、いかにとなれば、古事記に、天津日子根命者蒲生稲寸等之祖と見えて、此の社の同郡にまし、菅田神社馬見岡神社の同郡にますも、同じ御兄弟の神縁による事明なるにても著ければなり」と、創祀年代詳ならす、天智天皇9年当社に行幸ありきといへば、其以前の鎮座なるは疑ひなき所なり、嵯餓天皇の朝宣旨を下し給ふ(社記)、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、降つて花園天皇永享年間、後奈良天皇の天文年中、共に宣旨を下し給ふ、又櫻町天皇元文中及桃園天皇宝暦年中、大嘗会に奉幣使の差遣あり、明治9年10月村社に定まり、15年8月郷社に列す、境内844坪(官有地第一種)社殿は本殿、拝殿、神樂殿、倉庫、神具小屋、神門、回廊、盥嗽含等を具備せり。

明治神社資料



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