奥石神社
おいそじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】奥石神社 近江国 蒲生郡鎮座

   【現社名】奥石神社
   【住所】滋賀県近江八幡市安土町東老蘇1615
       北緯35度7分49秒,東経136度9分42秒
   【祭神】天児屋根命
       『神社本紀』(至徳元年1384)奥津比古命、奥津比売命、日本武命、弟橘比売命
       『神名帳考証』奥津比古命、奥津比売命

       本来の祭神は奥津比古命、奥津比売命であったと思われる。

   【例祭】4月7日 郷大祭
   【社格】
   【由緒】孝霊天皇5年に石辺大連が建てた
       崇神天皇期に吉備津彦が社殿を造営
       神護景雲元年(767)神封一戸
       仁壽元年(851)正六位上
       近江の守護職佐々木氏の崇敬が厚く
       柴田新左衛門尉家久の崇敬を授ける
       天正9年(1581)造営
       旗本根来氏の領となる
       明治9年10月村社
       明治14年2月郷社
       明治41年4月神饌幣帛料供進指定
       大正13年2月県社社名を鎌宮神社から奥石神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来より老蘇森に鎮座する

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鎌の宮」と称していた
   【公式HP】 奥石神社
   【社殿】本殿三間社流造檜皮葺
       重要建造物の指定をうけ、天正9年(1581)の棟札が現存
       神饌所・神門・水舎・神樂所・神輿庫・祭器庫・絵馬堂・休憩所・社務所

   【境内社】諏訪大明神・稲荷社
   【神宮寺】神社の南西500mに大連寺(ダイレンジ)と称する寺があつた

「老蘇森」と称され平安朝以來、和歌、紀行文、謡曲などに詠ぜられてきた地に鎮座する。
第7代孝霊天皇5年に石辺大連が老蘇森に神壇を築いて大歳神御子を祀ったことに始まる.
一説には観音寺山の山頂にある奥の磐座を望拝する麓の祭祀場という。
『社殿後方の森の中には三基の古墳が在る。自然を神とした古代信仰の場が、後に境内にある古墳の被葬者とのつながりの中に、氏族神として祀られて発展した神社の一例であらうか。』(式内社調査報告)


由緒

謹みてANじますと、太古、伊邪那岐、伊邪那美の二柱の大神がこの豊葦原瑞穂の国を創め給ふた時、御子天照大神に高天原を素盞鳴尊に海原を治めさせになりました。茲に素盞鳴尊は別離の挨拶に高天原に上り給ふたが大御神に対し奉り凌ぎ侮り給ふの御振舞が多かったので大御神は赫怒し給ひ遂に天岩戸に幽居し給ふたのであります。是に於いて国中常闇群神憂迷して手足の措く所知らず思兼命の議に従ふて種々の幣帛を供へ大御心を慰め和し奉るに当り、当社の祭神天児屋根命が祝詞を奏し給ふたにより大御神を招請することが出来、其の御勲請功により以後祭祀の事を掌り以って神人を和し給ふたのであります。即ち歴世皇室輔弼の臣として永く栄えた中臣氏(後の藤原氏)の祖神であらせられるのであります。因みに景行天皇の御宇(1900年前)日本武尊、蝦夷征伐の御時弟橘姫命は上総の海にて海神の荒振るを鎮めんとして「我胎内に子在すも尊に代りて其の難を救ひ奉らん霊魂は飛去りて江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓ひ給ひてその儘身を海中に投じ給ふ云々とあり。又用明天皇の御代(1400年前)聖徳太子が諸国御巡歴の途次老蘇の森に仮寓し給ふた時、その妃高橋姫が御難産であったので鎌大明神に御祈願になったところ忽ち御安産なされたという古伝によって、古くから安産守護神として妊婦の祈願に参拝するものが多いのであります。
(注)文中のANは「木」偏に「安」です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




奥石神社

史跡 老蘇の森鎮座
式内 鎌宮 奥石神社
御祭神 天児屋根命一座
例大祭 4月6日
社殿 三間社流造向拝付  重要文化財 天正9年正月
景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の御時、弟橘姫命は上穂の海にて海神の荒振るえお鎮めんとして、「我胎内に子在すも尊に代わりてその難を救い奉らん霊魂は飛去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓い給いてその御身を海中に投じ給う云々とあり。爾来安産の宮として祈願する諸人多し。
史跡老蘇の森  昭和24年7月文部省史跡指定
奥石神社本紀に依れば、昔此の地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住む地処ではなかったのであるが、人皇7代孝霊天皇の御代、住人であった石辺大連という翁が神勅を仰ぎ、松・杉・桧等の苗木を植えた所、忽ちに大森林になったという。平安期以来、中山道の歌所して、和歌紀行文又は謡曲等に詠せられたもの頗る多く文人墨客杖を引く者多くあった。
夜半ならば老蘇の森の郭公
 今もなかまし忍び昔のころ   本居宣長
身のよそにいつまでか見ん東路の
 老蘇の森にふれる白雪     賀茂真淵
平成6年11月
奥石神社社務所

社頭掲示板



奥石神社

老蘇の森(国史跡)と奥石神社(延喜式内社)
今から約2250年前、孝霊天皇のとき、この地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住む所ではなかったが、石辺大連という人が神の助けを得てこの地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になったと伝えられています。又、この森は、万葉の時代から世の移り変わりとともに数々の歌に詠まれている名高い森であります。
この森深く鎮まります奥石神社は、由緒ある名社として延喜式神名帳に載せられているのは、織山を御神体とする最も古く原始的、根元的な神社であったため、と言われています。
現在の本殿は、天正9年(1581)に建てられたもので、安土桃山時代の豪華さのなかに優美な落ちつきをもつ建造物で、安土町の国指定の重要文化財の中では、唯一の神社建築であります。
老樹の茂る深い参道をもつこの社は、中世より鎌宮神社ともいい、これは「蒲生野宮」がなまって名付けられたものと考えられています。
安土町

社頭掲示板



奥石神社

奥石神社本殿
三間社流造桧皮葺 桃山時代
三間社流造の庇の問に建具を設けて前室とし、さらに向拝(こうはい)をつける形式は滋賀県に中世の遺構が多く古式の流造がひときわ優美に発達したものである。
この本殿は天正9年の再建で、庇の間は開放としているが中世に発達した形式を踏襲しており、唐草文様を透彫りした蟇股や彫刻をほどこした手挟(てばさみ)、あるいは母屋の腰廻りの嵌板(はめいた)に配列した格挟間(こうざま)など、各所に華麗な装飾をつけた当代第一級の本殿建築である。本殿の再建は織田信長が城下町を形成する施策に関連したものと考えられ、棟札はその考証の好資料となるので、銘文を左記に起載した。
平成10年12月 安上町教育委員会
棟札銘文(棟札表)
江州佐々木御庄内老蘇村御社建、天正九年正月二十六日
施主者柴田新左衛門尉家久美州西方池尻住人也、天正九午辛巳書之畢
(棟札裏)
大工 西之庄左衛門三郎 筆者観音寺住僧円王院定長
八日市藤左衛門内口七是也

社頭掲示板



奥石神社

この森の奥深い所に「奥石(おいそ)神社」が鎮座する。 国道8号線より旧中仙道に入り石の鳥居をくぐり 両側に杉の大木が林立する参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿が立ち並ぶ。 玉砂利が敷き詰められたゆったりした境内に入ると、静寂そのものの別世界である。 この社、奥石神社は延喜式内社で御祭神として「天児屋根命」(あめのこやねのみこと、をお祀りしている。
本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので 国指定重要文化財である。三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物である。
境内中央にどっしりした拝殿、本殿に向かって左には摂社諏訪明神社(市指定文化財) が鎮座する。 

公式HP



奥石神社

延喜式神明帳に記載の奥石神社であり、社伝によると崇神天皇の御代四道将軍を差遣ありし時、吉備武彦が武運祈願の為に勧請せし所なり。また、孝霊天皇の30年石部大連と云う翁が社壇を築きしに始まると記されている。奥石神社を鎌宮と称した起源は明らかではないが、大正13年に鎌宮を奥石神社と改称している。本殿は天正9年織田信長の寄進と伝えられ柴田新左衛門尉家久の造営であるといわれている。明治9年10月村社、同14年2月郷社、同41年4月神饌幣帛料供進指定 大正13年2月県社に加列される。

滋賀県神社庁



奥石神社

おいそじんじゃ 滋賀県蒲生郡安土町東老蘇。旧県社。祭神は天児屋根命を祀る。
孝霊天皇の御代、石辺大連の創祀と伝える。
神護景雲元年(767)神封一戸を充てられ、『延喜式神名帳』にも列した。中世には守護佐々木・六角氏の崇敬が篤かった。例祭は4月3〜7日まで行われ、その間に卯の刻渡(裸祭)や管絃渡などの神事が行われる、本殿は天正9年(1581)に織田信長が柴田家久に造営を命じたもので、重要文化財に指定されている。

神社辞典



奥石神社

奥石は於伊曾と訓べし○祭神詳ならず○東老蘇村に在す、今は鎌大明神と称す、

神社覈録



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