このあたり一帯はもともと立入庄と呼ばれた古郷であり、野洲川の氾濫によつて立入庄が二分されて、一方は野洲町に、一方は旧守山町に分離したのである。おそらくその折に、分割された方の立入庄にもとの鎭守神たる新川社を奉祀した(当社)ので、結果として新川神社は河を挟んでの二社を存することとなった。 当社を野洲市野洲鎮座の新川神社の分霊社と見る説もある。 旧社地については@野洲川河川公園・バスケット場付近、A野洲新川社現社殿の上・野洲川河川敷とする2説がある。 |
新川神社 新川神社は、野洲川の司水神を祀る神社です。 主祭神は小楯比売命。 新川神社の社伝では、白鳳元年(672)に祭神・物部大新川尊を勧請(分祀)したとあります。近江国輿地志略(1734)には、新川大明神は土俗立入村十禅師の分身なりとあります。 弘治2年(1556)の社伝には、霊亀2年(716)に大新川神霊を邑に分祀すると伝えられています。また、言い伝えによると、立より34戸が野洲に分かれたとされています(野洲市野洲には立入姓が多い)。 滋賀県神社誌には、以前の社殿は現在地上流の野洲川河川内(現河川公園バスケット場付近という)にあったと記載され、言い伝えによると、洪水で御神体が現在の場所に流されてきたといわれています。 日本書紀等の六国史中・日本三代実録では、貞観11年(869)12年条に、新川神と記し神階正五位下が与えられ、仁和元年(885)9月には新川上神と記し、正五位上が与えられています。 この16年の間に新川神社は上社と下社に分かれたことがうかがわれます。 平安時代の延喜式(927)では、新川神社という名前は消え、上新川神社と下新川神社となり、ともに式内社に列しています 社頭掲示板 |
新川神社 社伝によれば、霊亀二年に大新川神霊を野洲と幸津川二邑に分祀するとあり、「延喜式」神名帳に記載の上新川神社、下新川神社の上社である。「近江輿地志略」には正一位新川大明神は「土俗云、立入村十禅師の分身なり」とあり、創祀は河川の氾濫を守る為、野洲川のほとりに司水神として祀られた社であり、現社殿の上野洲川河川敷に旧社殿跡がある。明治41年村社に指定。 滋賀県神社庁 |