下新川神社と併せて、野洲川の河川神としての古い起源が考えられる。 参道には正月にかける「かんじよう釣り」が残されている。 |
新川神社 社伝には、天武天皇が大友皇子と野洲川を隔てて皇位を争われた際、勝利祈願をされ成就し即位された。朱鳥元年、造営になったと伝える。後、貞観11年従五位上仁和元年正五位上に加階された。延喜5年には、式内社に列せられた。後、野洲川が度々氾濫し社殿、境内等は、その被害を受け荒廃するに至ったが、その度ごとに、再興の篤志が寄せられた。寛永3年、天領代官芦裏観音寺の奉行で、本殿、拝殿等再興されたが、宝暦元年、火災のため焼失、宝暦3年再建に着工、同四年に上棟、今日に至っている。正徳4年、吉田神道ト部兼敬から正一位新川大明神の宗源宣旨を授けられている。当社は、野洲の町衆、船仲間等の崇敬厚く現在に至る。 滋賀県神社庁 |
上新川神社 上新川は加美爾比加波と訓べし○祭神大新河命歟〇三上荘野洲村に在す(與地志) 考証に、在生福寺村、今為甲賀郡と云り、與地志所見なし、尚下新川神社の下考併すべし、 神位、 三代実録、貞観11年12月25日戊申、授近江國從五位上新川神正五位下、仁和元年9月22日癸夘、近江國正五位下新河上神授正五位上、 神社覈録 |
郷社 新川神社 祭神 物部大新川命 小楯姫命 創祀年代詳ならす、俗説によれば立入村十禅師の分身なりといふ(與地志略)、清和天皇貞観11年12月25日從五位上より正五位下に進められ、光孝天皇仁和元年9月21日正五位上に加階し給ふ(三代實録)、醍醐天皇延喜の制小社に列し、上新川神社といふ、櫻町天皇宝暦元年炎上の災に逢びて旧記悉焼失し、其後の沿革を知る能はず、明治維新の際までは御供用田七畝ありきといふ、明治16年郷社に列す。境内2000坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、其他神門。假殿、水屋、社務所、倉庫等を備へ、地琵琶湖畔の平地に位し、風光明媚と称せらる、因に記す、渡会経延の神名帳考証によれば、上新川神社は甲賀郡生福寺村に在りといふ、猶考ふべし。 明治神社誌料 |