比多利神社(二宮神社境内社)
ひたりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】比利多神社 近江国 野洲郡鎮座

   【現社名】比多利神社(二宮神社境内社)
   【住所】滋賀県野洲市西河原 552
       北緯35度6分9秒,東経136度1分3秒
   【祭神】素戔嗚尊
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       建久年中(1190〜1199)に比留田の地から遷

   【関係氏族】治田ノ連
   【鎮座地】建久年中(1190〜1199)に比留田の地から遷

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

二宮神社鳥居入ってすぐ左に鎮座する。
建久年中(1190〜1199)に比留田の地から遷されたと伝。
沖積性農耕平野に聚落の守護神として祀られる標型的な存在である。
中主町史に『欽明天皇6年豊積荘に降臨されて、比留田に鎮座されたが神威殊に荒々しきを以って村民守護しかね、神慮此の地に叶い難しとて建久年中西河原へ移転して二ノ宮神社の境内に小社を祀ると云う』とある。


二之宮神社

市指定史跡
  二之宮神社境内 管理者 二之宮神社
製作期 平安時代後期
 二之宮神社は、野洲郡中主町大字西河原字宮ノ内に所在する、西河原区の鎮守である。社伝によると、祭神は天児屋根命と経津主命の二座で、欽明天皇の世に鎮座し、養老2年(718)に初めて社殿を造営したと伝える。現在は、(式内)兵主神社の末社で、境内には明治に合祀された天皇社、上ノ道三神、天満宮の三社、それに小安神社、大神宮、愛宕神社と建久年中(1190〜1199)に比留田より移ってきたという(式内)比利田神社が鎮座している。
 境内地(11,280u)の北東から西側にかけての複雑な溝状遺構に最初に注目されたのは、庭園文化研究所所長(故)村岡先生であった。先生は、県下の未指定庭園調査の成果報告である『滋賀の庭園』第三集(昭和60年)において、「…樹林地の地形にかなりの起伏があり、流れがあって小さな中島も認められる。…現状でははっきりしないが、案外古い遣水跡かも知れない。」と指摘され、その後も『滋賀の美−庭−』(京都新聞社、昭和60年)に紹介されるなど、衆目より古式の庭園として注目されることとなった。
 これを受け市教育委員会では、境内の測量・試掘調査を、昭和62年に実施した。この結果、護岸に粘土を敷いて貼床とし、10cm前後の河原石や割石を不規則に貼った、遣水状の溝、直径七m余の円島、一辺6m余の隅丸方島、それに貼り石を伴わない複雑な溝などの遺構が発見されるにいたった。出土遺物は、土師器の皿類がほとんどで、その年代は粘土の貼床層の下層で12世紀〜14世紀前半、上層で14世紀後半〜16世紀を中心に出土した。遺構の性格は、円島・隅丸方島が経塚や火葬塚といったものである可能性もあるが、これに続く曲水の溝が、社殿の方位と一致し、遺物に日常雑器ではなく皿類が多いなど、鑑賞ばかりでなく、神社祭祀とも深く係わる庭園であったことを示すものといえる。
 このように本境内は、一般的な庭園とも全く趣が異なるものであり、日本庭園史上に新たな庭園遺構の存在を提示するものとして貴重である。

社頭掲示板



二ノ宮神社

兵主神社所管社二十一社の一。欽明天皇の時代に鎮座。養老二年社殿造営。のち大同2年、延暦寺の僧最澄が天台宗弘法のため湖東に三大寺を創設、中主町乙窪の仏性寺をその一とし、当社を鎮守神に定めたと伝える。二ノ宮社の社名は、兵主神社二十一社のうち、中七社第二番目に当るところからきた。
境内社の比利田神社は、欽明天皇6年、豊積荘に降臨、比留田字上山に鎮座されたが、建久年中となって、西河原二ノ宮神社の境内に遷されたと伝える。悪皇子宮とも浅殿神社とも称された。御祭神は、開花天皇皇子日子坐王命、延喜式内社、兵主二十一社の一。また、口伝によれば、同社を本兵主とも称し、養老2年、兵主大神が、八ッ崎裏に降臨されたとき、北利多神が兵主郷に迎えたといわれる。兵主神社の古式例祭には、西河原。比留田両字も七社の一つに加わり、神輿を渡御する。

滋賀県神社庁



比利多神社

比利多は仮字也○祭神詳ならず○比留田村に在す(考証)
按に、與地志に、比留多村は兵主郷十八村の内にて、當村には秩見妙見明神と称する社の外なし、比利多神社の事蹟も戴せず、猶考べし、

神社覈録



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