下新川神社
しもにうかわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】下新川神社 近江国 野洲郡鎮座

   【現社名】下新川神社
   【住所】滋賀県守山市幸津川町1356
       北緯35度6分29秒,東経135度59分2秒
   【祭神】豊城入彦命 (配祀)小楯姫命
   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】霊亀元年(715)小祠を建立
       貞観11年(869)正五位下
       明治18年6月郷社
       昭和6年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

崇神天皇の第1皇子豊城入彦命が東国を平定せんと湖西より丸太のイカダ(筏)で渡られこの地を平定、幸津川の里と命名された。
野洲川の南流・北流の形成したデルタの中央部にあり、河川の氾濫を守るために河流のほとりにまつり、司水(洪水守護)のための河川神である。
国選択無形民俗文化財「すし切りまつり」は毎年、5月4日から5日にかけて行われ、5月5日の正午ごろ、若衆2人が古式にのっとり「ふなずし」を切り、献上する「すし切り」の儀式です。
 正式名を「近江のケンケト祭」といい、豊城入彦命を、村人がふなずしを献じてなぐさめたことが始まりとされている。


下新川神社

主祭神 豊城入彦命(崇神天皇第一皇子)
    新川小楯姫命(近江の国神で地の司水神)
本殿 一間社流造 間口一間三尺 奥行一間四尺
拝殿 入母屋造 間口四間 奥行三間
神紋 左三ツ巴 鴛鴦
境内社 愛宕神社・鹿島神社・白山神社・龍神社・牛神社
境内摂社 大水口神社 通称小宮さん
境外摂社 □鶴稲荷神社 伏見稲荷を勧請
他建物 神輿庫・宝庫・神饌所・手水舎・社務所他
由緒 第十代崇神天皇第一皇子豊城入彦命が東国を平定せんと湖西より丸太のイカダでお渡りになりこの地を平定幸津川の里と命名されました。霊亀元年(715)小祠を建立したのが始まりと社記に依る。貞観11年(869)正五位下に叙せられる日本三代実録清和天皇の御籠愛をうけ比叡山延暦寺第三座主慈覚大師が御祭神の末裔であるとして
仁和元年(885)正五位上に叙せられる
延喜式内国幣小社に所定(912)延喜式巻十号
応永29年(1423)社頭造営
延徳2年(1490)大明神号下付 宗源宣旨本社蔵
同年 正一位に叙せられる勅額(後土御門天皇)勅額現存
寛永15年(1644)奉遷宮 社蔵棟札文
寛文2年(1661)奉遷宮 社蔵棟札文
享保2年(1717)本殿造営 社蔵棟札文
明治18年(1885)郷社加列
昭和6年(1932)県社昇格 幣帛供進指定 神社所蔵文
昭和31年(1956)拝殿再建落成
大祭5月4・5日(昔は4月上の辰の日)
鮒鮨切り祭長刀踊・練鼓(かんこ)の舞と共に國選択の無形文化財
鎮座地 2172坪 守山市幸津川町1356番地

社頭掲示板



下新川神社

元正天皇霊亀2年開拓の祖神、野洲川の司水神として崇敬されたと伝える。小楯姫命とともに社殿を建立して今日に至った。式内社で神階正五位上に叙され、吉田兼倶宗旨を下し、社に大明神号を授け、正一位に叙す。昭和六年県社に昇格された。
5月 5日 鮒すし切神事
すし切り祭り。琵琶湖でとれた鮒の塩漬けにしたもの(鮒鮨に加工する前段階)を当番組の青年(長男)2人が神前において、包丁と賄箸(まなばし)を用いて切り離す。 頭・尾・ひれと切断し、胴はいくつかに切り、竹で組んだ祭壇に供える。なお前日と当日には、長刀踊りやかんこの舞いが数回にわたつて奉納される(けんけと祭り長刀振り)。

滋賀県神社庁



文化財

守山市指定文化財(平成14年9月17日指定)
紙本墨書宗源宣旨(書跡)
木製神階篇額(歴史資料)
木製棟札(歴史資料)
所在地 守山市幸津川町下新川神社
宗源宣旨とは、京都の吉田神社の神職である古田家(ト部氏)が天皇の出す「宣旨」の形式をとって、全国の神社に対して、社号や大明神などの神号、神階(祭神の位階)等を与えるための文書である。江戸時代には、幕府の公認の下で大々的に発行されるが、当社の宣旨は吉田兼倶が延徳2年(1490年)3月18日に出した初期のもので、宿紙に書かれている。
神階篇額は、本殿もしくは拝殿に掛けられた額である。正面に「正一位」、裏面に「幸津河新河大明神」「延徳2年庚戌3月18日」と陰刻していることから、宗源宣旨と同時につくられたことがうかがわれる。当社の宗源宣旨は、県内に現存するうちでも指折りに古く、篇額が揃った例は稀である。
棟札は、應永29年(1422年)11月23日の社殿建立時のものである、この棟札銘からは、欠文があるものの、阿閣梨宗知ら四人の僧侶が造営の主体であること、乗蓮坊という僧侶が下新川神社の経営に関わっていたことを知ることができ、神仏習合の下での当社の運営が僧侶主体であったことを示している。
なお、毎年5月4、5日に奉納される近江のケンケト祭り・長刀振り(すしきり祭り)は、古式を留める民俗芸能として、昭和59年12月20日に国の無形民俗文化財に選択されている。
平成16年8月27日
守山市教育委員会

社頭掲示板



下新川神社

下新川は志毛爾比加波と訓べし○祭神大新川命(考証)○幸津川村に在す(與地志)
考証に、此社元在立入村、今在野洲村と云り、與地志、此野洲村なるを上新川と云、軌れか知らず、されど志は國人の編輯なる故に是に從ふ

神社覈録



郷社 下新川神社

祭神 豊城入彦命 小楯姫命
祭神一説大新川命、小楯姫命なりといふ(社紀)猶一説に新川小楯姫命(特撰神名帳)ともいふ、創祀年代詳ならず、光孝天皇仁和元年9月正五位上を授け給ふ(三代実録)由見えたれば、その古社たることは明かなり、
醍醐天皇廷喜の制小杜に列す(延喜式)、其後の沿革知るべからず、明治の初め村社に定まりしが、同18年郷社に列す、御神体は御木像とす、境内2300坪(官有地第一種〕、社殿は本殿、拝殿其他中門、透塀等を備ふ、地平原の中に位し、針葉樹林高く茂り、伝神威の厳なるを覚ゆ、宝物には後土御門天皇延徳3年3月18日神部伊伎宿禰卜部朝臣等の花押ある宗源宣旨の古額一面を蔵す、因に記す、神名帳考証には下新川神社を野洲村に在りとなし、注進状に引ける式社考の説も亦之に同じ、異説として見るべし

明治神社誌料



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