小津神社
おづじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小津神社 近江国 野洲郡鎮座

   【現社名】小津神社
   【住所】滋賀県守山市杉江町495
       北緯35度4分22秒,東経135度57分34秒
   【祭神】宇迦之御魂命
   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】允恭天皇30年4月創設
       欽明天皇28年洪水により琵琶湖に流出遷座
       建武2年(1335)足利尊氏兵馬の乱入を固く禁じた
       応仁の乱のころ社殿堂塔焼失
       永正2年(1505)兵乱によって炎上

   【関係氏族】小津君
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿三間社流造檜皮葺で
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社
   【神宮寺】智泉院と称し、天台系で山科の毘沙門堂門跡に直属する寺であつた

この地方を本貫として繁栄した小津君(尾津氏)の祖神として創祀されたもの。
境内社地主神社は境内の中央に在り、氏人らはこの小祠を特に「小津さま」と称して崇敬し、本社の大宮についで大切に扱われている、古代氏族たる小津君の祖神を祀るとしているもので、その名のごとく、この土地本来の地主神はむしろここであると考えられている。
毎年5月5日に行われる長刀振り(なぎなたまつり)は、国選択無形民俗文化財。


由緒

景行天皇の皇子日本武尊の御孫小津君を当地開拓の祖神としてまつったのが創始で、後允恭天皇の皇妃玉津姫命のお願いによって宇賀之御魂命を主神として氏神と仰ぎ、延喜式内の名社として、武門名将の信仰もあつく、現在に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




小津神社

景行天皇の皇子日本武尊の御孫小津君を開拓の祖神としてまつったのが創始で後允恭天皇の皇妃玉津姫命のお願いによって宇賀之御魂命を主神として氏神と仰ぎ延喜式内の名社として武門名将の信御も厚く現在に至っている。
神像
木造宇賀之伽魂命坐像は平安時代中期の作で、我国神像彫刻として最古の洋式を示し国指定の重要文化財である。
本殿
木造桧皮葺三間社流造大永6年(室町時代)の建造物として彫刻の美は、よく当時をしのぶことができ国指定の重要文化財である。
長力踊
毎年5月5妃の古式祭長力踊は欽明天皇の頃洪水により湖中へ流失した神殿を再び現在の地へ迎えた民人の喜びを長刀踊として今に伝え国の無形民俗文化財に選択されている。
昭和61年1月 之建
小津神社宮司 山岡茂 謹書

社頭石碑



小津神社

重要文化財 小津神社本殿 守山市杉江町 三間社流造、向拝一間、檜皮葺 室町時代 小津神社は小津氏が祖神と五穀の神、宇賀之御魂命を奉ったのに始まり、応仁の乱頃には、六角高頼により再興されたという。
現在の本殿は、社記に大永6年(1526)に本殿を改築したという記述があり、様式手法からもこの頃の建築と考えられる。
建物は母屋を前後二室に区画し、その前面の庇は、正面・・・とし、床を一段低くして前室とする。
母屋背面柱筋には、脇障子を設けて、三方に縁を廻し、正面前方には、一間の向拝を設ける。組物は母屋の隅柱上を舟肘木とするが、背面内側の柱上は軒桁を直接受ける。側面中央は大斗絵様肘木と簡素であるが、前室は出三斗とし正面両脇間、側面に蟇股を置き飾る。向拝は組物を手挾み付き連三斗とし中央に蟇股を置く。
当本殿は、柱、組物などは当初材が良く残り、滋賀県下中世遺構の多い三間社流造前室付本殿の内でも、向拝・一室廻りに装飾性を集中させた室町後期の神社本殿建築として宝重である。
平成七年三月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



小津神社

日本武尊の孫小津君がこの地を開拓して農耕に従事し、子々そのこころざしをついで農産の発展をはかり、のち祖神をまつったのが、現在の神社であると伝えられている。允恭天皇の皇姫玉津姫の願により、大宅臣木事連に命じて、宇迦之御魂命をまつって主神と仰ぎ、更に素盞鳴命、大市姫命をまつって現在に至る。社記によれば欽明天皇二十八年洪水により社殿琵琶湖へ流失したとあり、また延喜式内社として庶民の信仰をあつめ、武門名将の崇敬もあり、文応元年相模守越後守在判の御洪湯田の神納もあり、高島郡安積川(安曇川)御網代の寄進もあった。更に建武二年足利尊氏は小津明神領、先例にたがうことなく、境内に甲乙の乱入殺生伐木狼藉を停止せしめる下知状を差したてている。文正・応仁の争乱で兵火に遭い、灰燼と帰した本殿を佐々木近江守高頼によって再建、ついで永正二年の兵乱のため炎上した本殿を山門の僧実観明舜房によって、十八か年の歳月を経て再建、現存の本殿がこれである。神宮寺、智泉院は天台宗山科毘沙門堂の門跡末寺として、社僧によって諸祭儀をいとなみ、今日廃寺となり境内近くに護摩堂のみを残している。旧社格は県社である。

滋賀県神社庁



小津神社

おずじんじゃ 滋賀県守山市杉江。
旧県社。祭神は宇賀之御魂命・小津君を祀る。允恭天皇30年玉津姫が五穀農饒草木繁茂祈願のため祀ったことに始まると伝える。『延喜式神名帳』に列した。5月5日の例祭である長刀祭は、神社創建以来続けられていると伝えられ、多くの若者達が長刀を振りながら別宮まで渡御する。社宝の木造宇賀之御魂命坐像(平安時代後期)と本殿(大永6年(1526)は重要文化財に指定されている。

神社辞典



小津神社

小津は假字也〇祭神宇賀魂(頭注、恐くは小津君祖神ならんか、)○山賀荘杉江村に在す
旧事紀(皇孫本紀)に、日本武尊児雅武彦王命、尾津君等祖、』古事記に、倭建命娶山代之久々麻毛理比売、生御子足鏡別王、足鏡別王者、小津之祖也、(宣長云、小津の下に君の字脱たるが云々、旧事紀に尾津君あれば也、と云るは然るべし、)姓氏録(未定雑姓大和國)に、尾津直、漢高祖五世孫大水命之後也とも見ゆ、」神社啓蒙云、玉津正一位小津神社、按、祭奠必用午日、又称稻荷同体神、則玉津之二字蓋有拠乎と云り、連胤按に、今も古額に玉津正一位小津大明神とあり、されど玉津の文字、稻荷に拠ありと云は何に依る考かしらず、且正一位の叙日未考得ず、恐くは中古の流弊なるべし、』山家要略記に、玉津明神は允恭天皇の后衣通姫也、と云るは信用しがたし、
雑事
朝野群載六、(神祇官)康和5年6月10日、奏亀卜、御体御卜、坐近江國小津神云々、社司等、依過穢神事崇給、遣使科中祓、可令祓清奉仕事、宮主從五位下行少祐卜部宿禰兼良、中臣從五位上行権少副大中臣朝臣輔清

神社覈録



郷社 小津神社

祭神
大宮 宇迦之御魂命 二宮 須佐之男命
三宮 大市姫命 若宮 玉津姫命
創立は允恭天皇御宇30年玉津姫の御願に由り、五穀豊熟草木繁茂の為めに、大宅臣木事連に勅命して湖邊小津袋の地に祭祀せられたるに原くといふ、爾後皇室の御尊敬篤く、欽明天皇の御宇玉津の地へ遷座せられ、天智天皇御宇社殿修造の事あり、文徳天皇御宇神階正一位勲六等を奉授せられたりと云ふ、延喜の制式内大社に列し、朝廷の崇敬淺からず、堀河天皇の康和5年6月10日の御トに、小津神の社司其神事を穢せる崇あるを以て、社司に中祓を科せられし事あり「朝野群載)後世兵乱の世となりて応仁文明の兵火に罹りて社殿炎上せしが、佐々木近江守源高頼之を歎き、神威の尊厳を畏みて再建造営せり、後又永正2年兵火の為め社殿炎上したりしを、赤野井民部大夫貞春二男山門僧實観明舜房首唱して大永6年社殿諸堂を再建し、別当智泉院を開基せり、本社は古昔大社にして、神殿巍巍として四至封彊神田壱百余町神戸二千余戸を有し、勅使殿、幣殿等の設備ありて。年々勅使参向大祭を奉仕せられたり、中世以後武家の崇敬亦篤く、兵乱の世と雖も尊厳を維持して今日に至れり、明治9年10月村社に列し、後ち郷社に昇格せらる、社殿は本殿、拝殿、神輿庫、社務所等にて、填内地3980坪(官有地第一種)あり、大宮本殿は明治39年4月14日特別保護建物に指定せられ御神体は本像にして明治42年4月5日國宝に列せらる、所藏の古文書種々あり。
近江國野洲郡椙邑小津大明神御供并湯田之事任先規之例全可神納并高島郡安積川御綱仕供之事是亦可備神供者也下知如件
文応元年8月18日相模守在判 越後守在判
近江國野洲郡椙小津明神領之事任先判之例相違不可有之条并境内甲乙乱入殺生伐木痕籍之事永可令停止 畢仍下知如件
建武2年3月20日 尊氏在判
社僧供人中
其他小津皇大神紀一巻あり。

明治神社誌料



近江国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA