江戸時代に牛頭天王社または儀峨大宮と称された旧村社八坂神社がある。この八坂神社を川枯神社に該当する社とする。 八坂神社の本殿向かって左手に「川枯神社」の小祠がある。 この祠が式内川枯神社の後とする説と、八坂神社が式内川枯神社の後とする説がある。 社伝によると、郷土開拓の祖神である川枯神を勧請し、794年(天平21年)左大臣橘諸兄公が隣接する千光寺の伽藍を造営する際、仏法擁護のために社殿を造営したと伝わる。 |
重要文化財 八坂神社本殿 甲賀郡水口町大字嶬峨 一間社流造、桧皮葺 桃山時代 八坂神社は、明治時代以前は儀峨大宮と称されていた。 建物は、儀俄大宮千光寺雑録に天正15年(1587)再営の記があり、様式手法からもこの頃に建立されたと考えられる。昭和34年の修理の際に、外陣床・正面建具および縁廻りが復元整備された。 母屋は幣軸板扉構で内外陣に区画し、正面に格子戸を建てる。側面の腰長押が正面柱を廻って内陣正面と連結する形式は、竜王町の重要文化財苗村神社東本殿と同様である。 母屋四隅と向拝の柱上組物は連三斗、背面中央の柱・・・・木とする、向拝、母屋正面の透彫の蟇股と母屋・・・・・の彫刻で装飾する。妻飾りは・・・・・・花肘木を置きその上の斗が棟木下の肘木を受ける。 一間社流造本殿としては大規模で、木割も太く大宮と称するにふさわしい優れた建物である。 平成七年三月 滋賀県教育委員会 社頭掲示板 |
八坂神社下馬橋 江戸時代(元禄12年) 神池のほとりに建つ、花崗岩製の反橋。 三本の橋脚を貫でつなぎ、大斗で上部を受けるなど、凝った造りをみせている。 橋桁に刻まれた銘文によると、元禄12年(1699)雨乞祈願成就の返礼として、氏子より奉納されたものである。 石工は泉州日根郡烏取庄の住人である。 郡内には石造反橋が多いが、造りが丁寧で造立の経緯も明らかであることから、昭和59年4月、水口町重要文化財に指定された。 水口町教育委員会 社頭掲示板 |
八坂神社 重要文化財 八坂神社 本社は、社伝によると、仁徳天皇69年に勧請、素盞鳴尊、神武天皇、聖武天皇を祭神とし、天平21年(749)、ときの左大臣橘諸兄公が千光寺枷藍創立の際仏法保護のための社殿を造営し、承平2年(932)、今の地に遷し、これにより儀峨大宮の号を賜わったとされている。 また永享11年(1439)、社殿を再建するに、僧侶、村人が助成合力して造立に当ったとされている、その後数回に渡って修理がなされ、明治29年には、社殿が特別保護建造物に指定された。 本殿は拝殿より透塀を越えて一段高い所にある。その構造は一間社流造、桧皮葺の建物で、本殿は円柱、向背は角柱にて、その虹梁中央には牡丹の透彫のある蟇股を入れ、本殿正面にも桐材の見事な蟇股を嵌めている。その他、擬宝珠、階段、勾欄など平安期以後における仏教建築の神社建築への影響を本殿に見ると共に、中央文化の衰退と地方文化の勃興を伺うことができる。 現在、本殿は国の重要文化財に指定されており、神苑の樹木とともに静寂の中にあって、歴史の重さを漂よわせている。 社頭掲示板 |
八坂神社 郷土開拓の祖神、川枯神を勧請、天平21年左大臣橘諸兄が千光寺伽藍創立の際、仏法擁護のため社殿を造営し素盞鳴命を主神としたという。朱雀天皇承平2年に神徳布施の故をもって、儀俄大宮の号を賜り現在の地に社殿を建立。現本殿(重文)は永享11年の建立で天正15年、享保6年、慶応2年の数度に渉る修理を経て、昭和34年国の施工管理により解体修理が行われた。 滋賀県神社庁 |
川枯神社 二座 川枯は加波賀禮と訓べし○祭神川枯首祖神歟○在所詳ならず 旧事紀(天孫本紀)に、宇麻志麻治命児、彦湯支命、(亦名木開足尼)此命、淡海川枯姫爲妾、生一男出石心大臣命、』姓氏録(和泉圀神別)に、川枯首、阿目加伎表命四世孫阿目夷沙比止命之後也、 神位 三代實録、貞観3年4月8日壬子、授近江國從五位下川枯神正五位下、 神社覈録 |