信楽町の北東端にそびえる飯道山にある。創建は奈良時代、和銅年間に熊野本宮から分霊したと伝えられる。平安時代より神仏合習の飯道寺として栄えたが、明治初期の神仏分離により寺は廃され神社だけが残った。創建時の本殿は兵火により焼失、現在の本殿は江戸時代初期に再建されたもの。豪華な桃山様式の建築美を備え、国の重要文化財に指定されている。 飯道神社へ上る道は閉鎖され施錠されている。飯道山観光協会会長の案内を受けて参拝した。 本殿の周りには巨岩が立ち並び修験道場のあり日を偲ばせる。付近には隆盛を誇った寺院跡が多く存在している。 |
飯道神社 飯道寺の最盛期には20か所あまりの坊院が建ち並んでいたことが「飯道山惣絵図」に描かれ、それを裏付けるように坊跡の石垣が山中に累々と残っています。 なかでも智積院跡や宝蔵跡、東照宮跡では城郭を想わせる壮大な石垣が見事に残され、中世から近世にかけての典型的な山岳寺院の構造をそのまま残す貴重な遺跡です。 見学の際には、遺跡内に切り株や古井戸などが隠れていることもあるので十分気をつけてください。 ・飯道寺と飯道寺遺跡 飯道山は、餉令山、金寄山とも呼ばれ、古来より金勝山・太神山と共に修験道を修める山岳信仰の対象とされてきました。また、甲賀忍者の修業場であったともいわれています。 その歴史は、「延喜式神名帳」に甲賀郡内8座の1つとして飯道神社の名が見受けられ、さらには役行者の開基、和銅7年(714)金勝寺の安敬の中興との伝承があります。特に中世にかけては修験道の一大聖地として信仰を集めましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。 遺跡は2等三角点のある山頂(標高664.2m)より25分ほど下った二の峰山頂に所在し、付近にはのぞき岩、不動明分け岩、蟻の塔渡し、胎内くぐりなどと呼ばれる奇石・怪石が散在します。 山頂に立つと、信楽の山々を隔てて金勝・田上、遠くは湖水の彼方の比叡・比良の山々や京都の鷲峰山を望むことができ、この景勝は、織田信長が国見をしたと伝えられています。 往時の隆盛を偲ばせるものは、現在では極彩色に彩られた飯道神社本殿(国重文)と坊院の石垣だけになっています。 ・飯道神社本殿(甲賀市信楽町宮町) 飯道山の山頂に位置する神社で、奈良時代の創建とされています。 現在の本殿は慶安3年(1650年)に再建されたもので、檜皮葺に入母屋造りの豪華な桃山様式の建築が美しい。昭和51年に解体修理が行われ、建築当初の華やかな姿が再現されました。境内自由。 飯道山観光協会パンフレット |
飯道神社本殿 重要文化財 飯道神社本殿 飯道神社は、神体山の信仰から発して神社社殿の建立に進展したものと考えられるが、延喜式神名帳にも甲賀郡内八座の一つと して名を並べ、三代実録には元慶8年(西暦884年)に従四位下の格に上ったと伝えられる。飯道寺の隆盛と神仏習合思想により、長い間飯道寺と一体になってまつられてきたが、神仏分離令以後寺は廃絶し、山上に残る古建築は本殿のみとなった。 現在の本殿は、建物の部材に記された墨書により、慶安3年 (1650)に再建されたことが明らかで、桁行三間、梁間三間の屋根を入母屋造とし、正面三間の向拝は縋破風の軒に作り屋根正面に千鳥破風を、向拝には軒唐破風をつけた変化に富んだ構造である。内々陣を素木とする以外は、丹・漆塗り、金箔押し及び極彩色を施し、飾金具を散りばめた華麗なもので蟇股や手挟などの彫刻は江戸時代初期の技法で写実性をもっている。正側面の庇や背面の囲いは、本殿を保護するための施設であるが、昭和50年から同53年にかけて 行った解体修理工事中の調査により、現本殿建築当時から設けられたものであることが立証された。 昭和53年9月30日 滋賀県教育委員会 社頭掲示板 |
飯道神社 寛平9年金勝山大菩提寺に弁分度者二名の試度を許す太政官符に当社が見られ、式内甲賀郡八座の一である。平安時代中頃僧安皎は五院を創立、後分れて三十六院となり、本社を飯道権現と称した。元慶8年従五位上より従四位下に叙せたられ久安2年近衛天皇より飯道権現の勅額を下賜された。天正9年織田信長征戦の途次登山、社領二〇〇石を寄進、以後徳川時代は代々社領として二〇〇石を安堵され明治に至った。 本社は平安時代より神仏習合の聖地として民衆の崇敬篤く、殊に修験道場として隆盛を極めた。 本殿は慶安2年の再建で、桃山様式の極彩色を施し、昭和51年より解体修理を行った。 社頭掲示板 |
飯道神社本殿 重要文化財 飯道神社本殿 大正14年4月24日指定 飯道神社は神体山の信仰から始まって、延喜式神名帳に甲賀郡内八座の一つとして記載されている古社である。祭神は伊弉册尊・速玉男尊・事解男を祀る。 現在の本殿は慶安3年(1650)に建てられ、形式は間口三間、奥行三間に向拝を付け建物周囲に裳階を付けた大きな本殿である。屋根は人母屋造であるが正面に千鳥破風をつけ、その下方に向拝の軒唐破風が取り付く変化に富んだ外観を示す。蟇股や手挟などの彫刻は写実性に富み、建物の仕上げに漆や丹を塗り、組物や虹梁などには極彩色で飾つた江戸時代前期を代表する華やかな本殿である。 昭和63年3月 滋賀県教育委員会。 社頭掲示板 |
飯道神社 飯道は伊比美知と訓べし○祭神素戔鳴尊(與地志)○針村に在す、今は飯道寺の鎮守となりて、寺號の方名高し、 金勝寺寛平9年6月23日官符に、飯遺名神とあり、』與地志云、鐸安受、普國山観晋村に住ぜらる、其後山居の志ありて飯道寺へ移る、其時針村の飯道大明神、安受を岩洞に供養せらるゝ事あり、夫より安受を人みな貴みける云々、按るに、此時宮町村に遷し、山を飯道山と称せむにや、針村にも今に飯道明神とてあり、 神位 三代実録(元慶8年3月27日戊子、授近江國從五位上飯道神從四位下、 神社覈録 |