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垂仁天皇4年、倭姫命が天照大神を奉じて甲可日雲宮に留まった時、託宣によって川田神社が創始されたと言う。 |
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川田神社 主祭神 天湯川桁命 天川由奈命 例祭 4月25日 社伝に依れば当社の創建は垂仁天皇の御代とされる。平安時代の三代実録は貞観元年に川田神が従五位下から従五位上に進階したことを記し、延喜式神名帳には甲賀郡八座のうち川田神社二座とその名が見える。名神大社であった。中世は蔵田荘の鎮守として領主や荘民の信仰を集め川田二所明神あるいは「春日大明神」と称された。近世に入ると社頭の整備が進み、享保11年には正一位の位記を授けられ水口藩加藤家の崇敬社としてその保護を受けた。近代に入り昭和11年には旧県社に列している。 江戸時代初期建造の本殿は当初の彩色を残し意匠も古様である。 玉垣内には中世の石灯籠がある。また年中行事には祭神天湯川桁命の偉業を再現するという揚矢祭をはじめ民俗的色彩に富むものが多い。 平成5年3月吉日 水口町 社頭掲示板 |
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川田神社 天湯川桁命は鳥取造の祖で、その位勲は日本書紀巻六に録されている。本社殿の創建は垂仁帝の御代と伝えられ、清和帝の貞観年間神階を授けられ、醍醐天皇の延喜の制で大社に列し四時の官祭に預った。当時社殿を再建し境内をも拡張したが土御門帝の長享初年に足利軍の兵火で焼失、後一年余にして延徳元年内貴城主内貴伊賀守孝則が社殿を造築した。しかし正親町帝の元亀、天正年間の兵乱にその大半を焼失、以後逐次修復されて現在に至った。 中御門帝の享保11年正一位川田大明神の位号を持明院基修の染筆で賜った。天和2年以来水口城主加藤氏の崇敬深く毎年幣帛料を献ぜられ明治4年迄続いた。同24年4月内務省から古社保存資金百五十円を下賜され、同9年10月村社に、同17年11月郷社に、昭和11年6月県社に昇格した。 滋賀県神社庁 |
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川田神社 二座 並名神大月次新嘗 川田は加波太と訓べし○祭神春日四座(與地志)○北内貴村に在す○式三、(臨時祭)名神祭二百入十五座、近江國川田神社二座、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授近江國從五位下川田神從五位上 按に、考証、祭事記等に、貞観5年阿度河川田神の位階を当社とするは誤也 神社覈録 |
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郷社 川田神社 祭神 天湯川桁神 天川田奈命 天児屋根命 大己貴命 祭神は、社伝によれば、天児屋根命、大己貴命の二柱とし與地志略には春日四座とせり、創祀は垂仁天皇4年にあり、初め倭姫命、天照大神を奉じて、甲可の日雲宮に止まり給ひし時、神託あり、曰く、甲可山直郷は勝景の地なり、吾此に鎮座せんと欲すと、命よりて人をして祀らしめ給ふと、川田二所明神と号す、称徳天皇天平神護元年近江の地二戸を神封に充て奉り、(新抄格勅符)清和天皇貞観元年從五位上を授給ふ(三代実録)、醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、月次新嘗の二祭案上幣帛に預る(延喜式)、貞観の頃は神田五十町ありしが、十年減少して後には、社殿の修覆も意の如くならざるに至れり、中御門天皇享保11年3月1日正一位を授け給ひ、領主よりは1月、5月、9月の三回の代拝を遣はすの例となる、明治9年村社に列し、13年郷社に昇格す、境内2504坪{官有地第一種)社殿は本殿、舞殿其の他嗽水舎、神樂所、社務所等を備へ、地は野洲川の上流横田川の合流点に近く、瀟洒たる神境なり、川田神社に関して説をなすものあり、曰く「今按ずるに、縣の注進に、此の社頓宮村、北内貴村、正福寺村の三所に在り、頓宮村は、旧川越縣、北内貴村は旧水口藩、正福寺村は旧淀藩にて、各式社と決定したりといふ、然に由緒口碑等を考ふるに、頓宮村正しかるべく、正福寺村は神名帳考証に野洲郡上新川神社にあてたる説ありといひて、頓宮村を取れり、然れども其の神社考証を見るに、垂仁天皇の御世、倭姫命、天照大神を載き奉り、淡海國甲賀日雲宮に遷り給ふとある地にて、伊勢齋宮の頓宮所なり、其祭神は天照大神一社倭姫命一社なる由を記せるのみにて、川田神社といふ証なければ從ひがたし、北内貴村は輿地志略にも之と定め、同社由緒書に、社地は川田山に狂り、往古川田二所明神といひ、当村矢田野に在りしを今の地に遷すと云ふによりて、所在を定め記せり」(特選神名帳)と。 明治神社誌料 |