大水口宿禰命は饒速日命六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁によりこの地の居住されたと思われる土地開拓の神である。 中世近接の天台名刹大岡寺の護法神となつてより社名を山王新宮と称した。 |
水口神社参拝の栞 御鎮座地 滋賀県甲賀郡水口町大字水口小字沢田 御社名 水口神社 往古は大宮大明神と申上げた 御祭神 大水口宿禰命(オオミナクチスクネノミコト) 相殿 大己貴命(オホナムチノミコト) 素盞鳴尊(スサノオノミコト) 稲田姫命(イナダヒメノミコト) 由緒 祭神 大水口宿禰命は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)6世の孫、出石心大臣命(イズシゴコロオホヲミノミコト)の御子に坐し吾が郷土を御開拓遊された祖神にて御神徳広大無辺である 当社は三代実録貞観元年(859年)正月甲申の条に従5位下水口神に従5位上を授くとあり、延喜式内の旧社で、神名帳にある近江国155座甲賀郡8座の1だという。明治元年(1868年)9月明治天皇御東幸の砌、勅使を差遣せられた古より皇室の御尊崇を受けたるを始めとし将門士豪土民等の信仰を受く 什宝 女神座像 重要文化財 木造22.2cm 垂髪で両手を袖に入れて前に拱いた半身像で彩色を施す作者伝来等不明であるが簡素な中によく藤原期(10世紀〜13世紀)神像の特色を示している。昭和25年(1950年)8月重要文化財の指定を受ける。 官幣(勅使御奉納) 御幣( 同 ) 古文書(上総介書) おもな祭日 例祭 4月20日 大祓式 6月30日 納涼祭 7月 8日 観月祭 旧 8月15日 秋祭 11月 5日 新嘗祭 11月23日 歳旦祭 1月 1日 初神湯祭 1月 8日 初恵比須祭 1月10日 節分祭 2月 3日 祈年祭 2月17日 滋賀県指定無形民俗文化財 「水口曳山まつり」 水口神社の祭礼行事として享保20年(1735年)初めて曳山が曳き出された。町内に現存する山鉾は16基あり県下で多いことと曳山の中で囃される水口ばやしは変化に富んだ特殊性があり地方民俗の祭礼様式として貴重なものであります。囃子は神前に於て奏される神前の曲と、曳山鉾が行進中に囃される行進の曲の2曲より構成されて居ります。 神前の曲は、「額(ガク)」と「大蛇(オロチ)」の2曲があり、曳山所有町の伝統によって上記の2曲の中1曲が奏せられます。この曲は神様に献る曲でありますから、自ずから荘重にして厳粛、聞く者をして襟を正さしめるものであります。 「大蛇」は名の示す通り、始め荘重にして、次第に重みを増し、恰も雲を得た龍が天に昇るが如き活気を帯びた曲であります。 行進の曲は「馬鹿囃(バカバヤシ)」「大馬(オオマ)」「八妙(ヤタイ)」の3曲よりなり、「馬鹿囃」は曳山鉾が平坦地を徐々に行進する折の曲であります。 「大馬」は曳山が四角又は下り坂等にさしかかった場合に、方向を変えたり最徐行する折の曲であり、周囲の気分を和らげ注意を喚起するための曲であります。 「八妙」は曳山が上り坂に来た折、又神社の参道並木等に於て行ないます最も力のこもった勇荘活発な曲であります。これの曲に用います大太鼓(1)、小太鼓(2)、鉦(2)、横笛(3)の8つの楽器が、文字どおり8つの妙なる調べを発揮しつつ互いに攻め合いながらそのわざを競う最も華やかな曲で、折からの参道の桜吹雪と相呼応して、参拝者をして祭気分を満喫せしめ、自ずから神人合一、神人和楽の境地に至らしめ、手のまい足の踏む所を知らざらしめる曲で、水口囃子の圧巻であります。 水口囃子は祇園囃子や大津四宮囃子の如きゆるやかな上方囃子と異なりジャズ調ありマンボ調あり極めて野性的庶民的な近代的音曲をもった囃子であります。 公式HP |
水口神社 当社の主祭神水口宿根命は饒速日命六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に居住されたと思われる土地開拓の祖神である。配祀は大己貴命・素盞鳴尊・稲田姫命である。当社は三代実録貞観元年(859)正月甲申の条に「従五位下水口神に従五位上を授く」とあり、延喜式内の旧社で神明帳にある近江国155座、甲賀郡8座の一つとされる。明治元年(1868)9月明治天皇御東幸の砌、勅使を差遣せられた。 什宝に女神座像がある。木像長7寸8分(23.5cm)垂髪で両手を袖に入れて、前に供いた半身像で彩色を施している。簡素な中に藤原期神像の特色を示し、国の重要文化財に指定されている。また本殿前方に建つ六角石灯籠は、南北朝時代康永元年(1342)の刻銘を持ち近江式の装飾文を飾る優品で町の文化財に指定されている。 4月20日の例祭には神輿渡御の儀とともに曳山巡行を行う。水口曳山祭として県無形民俗文化財に指定され、多くの参詣者観光客で賑わう。 水口町 社頭石碑 |
水口神社 社伝によれば御祭神の大水口宿祢命は饒速日の命六世出石心大臣の御子で、出石心大臣の命の御母は淡海川枯姫である。淡海川枯姫は川枯首阿目加伎命四世の孫阿自夷沙比止命の後であって川枯神社に祀る。大水口宿祢命は母方の縁に依り此の地に居住されたものと思われる。土地の開拓の神として人々の崇敬が篤い。当社は延喜式内の旧社であって神名帳にある甲賀郡八座の一つである。本社の境内は往古は東西三十町南北二十五町を所有していたが永禄年間にその大半を官没され、天正年間に至り社領を失ない、わずかに五十六間四方を残したという。寛文3年6月代官小堀仁右衛門が水口へ赴任の時郷民に命じて再建させ、明年5月に至って竣工した。元禄10年拝殿の補修、正徳2年6月下野国壬生城主の加藤和泉守嘉矩が水口へ入城、本社の荒廃を嘆じて町民に造営をさせ、享保14年9月遷宮を行ない、同19年修復を加える。延宝の頃よりの旱魃の時雨乞祭を行なう。その時藩主の参拝又は代参があった。明治元年9月聖上、御東幸の時勅使を差遣せられる。明治27年6月14日境内を拡張し社殿の造営に着手し、同30年4月竣工、これが現在の社殿である。 滋賀県神社庁 |
水口神社 水口は美奈久知と訓べし○祭神詳ならず、(與地志)或云、五座、大己貴命、素戔鳴尊、稻田姫、武甕槌命、経津主命、○山尾郷倉田荘美濃部村に在す、土俗大宮と称す、例祭四月上申日、 旧事紀(天孫本祀)に、大水口宿禰命、出石心命子、考証に、按、水口、川田、川枯三社、共物部氏社乎、出石心命母川枯姫也、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授近江國從五位下水口神從五位上、 神社覈録 |
郷社 水口神社 祭神 大水口宿禰命 大己貴命 素戔鴫命 稻田姫命 一説祭神五座、大己貴命、素戔鳴尊、稲田姫、武甕槌命、経津主命といふ(與地志略)、神祇志料には大水口宿禰一座とせり、垂仁天皇の朝、倭姫命天照大神を奉じて此の國に来り、郷の酋長矢田部宿禰蔵田麿に問ふに、神鏡の鎮り給ふべき地を以てし給ふ、答へて日く、日雲宮はその地なるべしと、因って甲可川の流れに從つて上り、此の地に止まり給ふ事四年、大己貴神を以て神鏡守護の神として祀り給ふ、之れ即ち当社の創祀なり、(社紀)、清和天皇貞観元年正月27日從五位下より從五位上に進められ給ひ(三代實録)、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、当時社地東西三十四町南北二十五町を有せしが、正親町天皇永禄年中大部を没収せられ、天正の頃には方六十間とまで衰へしを、明治の初め三千六坪(官有地第一種 に廣められ、同9年10月郷社に列す、社殿は本殿、拝殿共他社務所、神樂所、神輿舎、水屋、神武天皇遙拝所等を備ふ、一説神社覈録には山尾郷倉出庄美濃郁村に在りて、俗に大宮と称するもの延喜式水口神社なりといへり、猶考ふべし。 明治神社誌料 |