奈良時代天平年間に甲賀杣、矢川津守護の神社として創建されたと伝えられる。 中世には甲賀武士の篤い崇敬を受け、江戸時代には水口藩の崇敬社と定められた。 天保13年、幕府の検地に反対して当社社頭に決起した天保一揆(甲賀騒動)は有名である。 境内には与謝蕪村の句碑が立てられている。 |
矢川神社 甲賀開拓の祖神 祭神 大己貴命 矢川枝姫命 当社は奈良時代の天平年間に甲賀杣・矢川津守護の神社として創建したと伝え、平安時代の延喜式神名帳に甲賀8座の筆頭の神社として登載された式内の古社である。中世を通じて甲賀武士団の崇敬を受け、甲賀郡中惣の集会が、しばしば当社において行われた。江戸時代には水口藩の崇敬社に定められ社殿の造営、境内の整備が進められた。天保13年の秋、幕府の検地に反対して当社の社頭に決起した天保一揆(甲賀騒動)は世に広く知られている。 当社の氏子は寺庄 葛木 深川 深川市場 稗谷 森尻宝木 杉谷 塩野の九大字に及び 崇敬者区域には希望ヶ丘 耕心区 ニューポリス区がある。 当社の境内はおよそ一万三千坪を数え 杉・檜を主とする美林は平地に残存する広大な鎮守の森として著名である。 例 祭 矢川まつり 5月 1日 神輿の渡御がある 境内社 池ヶ原神社 境内林中の弁天池に鎮座する 境外社 八坂神社 大字森尻の産土の神である 屋船神社 大字宝木の産土の神である 文化財 楼 門 室町時代中期 県指定文化財 襖 絵 江戸時代後期 県指定文化財 横井金谷筆 太鼓橋 江戸時代後期 町指定文化財 その他 句 碑 甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 与謝蕪村 社頭石碑 |
矢川神社 矢川神社は、奈良時代の天平年間(729年〜748年)に聖武天皇は紫香楽宮を造営された当時に創建されたと伝える。以来,甲賀開拓の神、杣川水系鎮護の神として崇められ、平安時代の延喜式神名帳に甲賀八座の筆頭の神社として、その名を留める歴史の古い由緒ある神社です。 @矢川神社 当社は「矢川神社」と書いて[やがわじんしゃ]と呼ばれています。江戸時代の享保12年(1727)に水口藩主が能筆家の南谷に揮毫させて奉納した社号額も「矢川神社」です。さらに古く、平安時代の「延喜式神名帳」にも「近江国甲賀郡 矢川神社」と記されています。当時の訓み方は[ヤカハ ノ カミ ノ ヤシロ]で「矢川ノ神」を奉祭する神社であったことが知られます。文字は同じ矢川神社でも、訓み方に古くは清音で[ヤカワ]、今は濁音で[ヤガワ]という違いがあります。 ところで「社」の文字は、普通[やしろ]と訓みますが、「杜」と同じく[もり]と訓んで、森を意味することもありました。神社には森が必要・不可欠で、神の鎮まる神聖な森を、古語では「かんなび(神奈備)」と呼ぶこともあります。 A矢河宮・杣野川宮・矢河社 当社に古い本殿の棟木があります。これには「矢河宮建立寛喜二年歳次庚寅上棟九月三日勧進聖人弁覚并氏人等敬白」「御造作建長四年歳次辛子三月七日辛卯□□願主」などの墨書があります。寛喜2年(1230)建長4年(1252)は、ともに鎌倉時代の元号で、当時は「矢河宮」と称したことを示しています。 南北朝時代の甲賀土着の武士、山中氏や小佐治氏等が残した文書によれば、建武4年(1337)4月、北朝(足利尊氏)方に属した甲賀武士団の主力は「杣野川宮」に集結し、ここを拠点にして、南朝軍の拠点「飯道寺城」を攻め落とし、さらに「調子郷内岩倉城」に転戦しています。翌建武5年には、信楽の南朝方が「池原杣野川郷」を焼き払い、これを北朝方が「金剛童子峰杣内高徳寺」に追い返しています。この甲賀郡内の合戦の記録に見える「杣野川宮」は「杣矢川宮」で当社のこと、また「池原杣野川郷」は当社の所在地「池原杣庄内の矢川郷」を示しています。 また当社旧蔵の大般若経600巻は明応5年(1456)のものですが、巻首に「江州甲賀上郡池原杣庄矢河社常住也」とあって「矢河社」の名も知られます。 B矢川大明神社・矢川大明神 「明神」とは「威厳と徳を有する神」を称えた言葉です。これをさらに強調して「大明神」と言います。神様の称号にはもう一つ「権現」という言葉があります。権現とは、仏や菩薩が衆生を救うため、仮(=権)に日本の神として現れたのだという思想に基づく言葉です。 矢川神社の神様は「明神」号をもって称えられてきました。宝暦6年(1756)造営の現在の本殿の擬宝珠には「近江国甲賀上郡杣之庄 日吉山・矢川大明神 施主・氏子七ヶ村 願主・法印周顕敬白」等の刻銘があります。江戸時代の地誌「近江輿地志略」には「矢川大明神社」とあり、また明治初年奉納の本殿懸鈴には「杣一ノ宮・矢川大明神」の銘がみられます。 今でも地域の年配の人は、当社を「明神さん」「矢川さん」と呼んでいます。 C甲賀の雨宮 矢川神社は「甲賀雨宮」の別号があります。当地に伝承された雨乞返礼踊唄の中にも「音に聞こえし矢川社さまは 氏子宝の雨の宮」といった歌詞が見えます。 当社は、杣川水系の司水神(水の神・川の神)として杣川の河岸段丘上に奉斎された神社ですから、それと関連して降雨の神、雨乞いの神、ひいては五穀豊穣の神、農耕神として崇められるのは、当然の成行きです。現在も月毎に、風雨順時・五穀豊穣・国土安穏・諸願成就を祈る月次祭[つきなみのまつり]が斎行されています。 当社の雨乞いの霊験はまことにあらたかで、社伝によれば、室町中期の文明4年(1472)7月、大和国山辺郡布留郷50余村から雨乞いの願が掛けられ、満足の降雨を頂いたので、その返礼として楼門一棟を寄進したと伝えています。この楼門は文禄年間(1592〜95)に大風により上層を吹き落とされて失い、草葺(茅葺)の姿で現在に伝えられ、滋賀県指定の文化財となっています。 その後も江戸時代を通じて、杣22ヶ村・矢川本郷7ヶ村から当社に数多く請雨の立願があり、返礼の雨乞踊や能・狂言が神前に奉納されていました。このことは当社の古記録「矢川雑記」3巻に詳しく記されています。 D杣三社大明神 杣川流域一帯の地は、奈良時代に「造東大寺司」の管轄する「甲賀杣」があったところです。平安時代には、この甲賀杣が荘園化して「杣荘」が成立します。荘園の範囲は杣川流域22ヶ村に及びました。杣荘[そまのしょう]の名は、杣から荘園への変遷過程を明確に示しています。 杣荘(杣ノ庄)の域内には、有力な3つの神社あります。これを総称して「杣三社」と呼んでいます。中世の起請文にも「杣三社大明神」は甲賀郡を代表する神社として登場します。杣三社とは矢川社・新宮社・三大寺社の三社のことです。 杣庄22ヶ村は承応年間(1652〜55)にいたって三大寺郷6ヶ村、新宮郷9ヶ村、矢川郷7ヶ村に三分されます。社記によれば、当社の社殿等の造営に当たっては、三大寺社付6ヶ村・新宮社付9ヶ村の氏子も、有志がこぞって寄進をすることが記されています。これら15ヶ村を「外氏子」と称したようです。この区域は当社の旧氏子区域で、現在でも当社の沿革・歴史と深く関わる崇敬者区域と言えるでしょう。 公式HP |
矢川神社楼門 滋賀県指定有形文化財 昭和41年7月4日指定 神社の創立は明らかでないが、延喜式神名帳に載る古社である。楼門は、社記によれば文明4年(1472)大和国布留郷五十余村から雨乞いの返礼として寄進建立されたと伝える。 建物は、県下に遺構の多い三間一戸楼門という形式で、正面三間、側面二間に扉が取り付き、屋根は入母屋造の茅葺。 当初は本来の二階造り楼門であったが、文禄年間(1592−96)の大風で、上階は組み物より上を失い現在の形になったという。 組物や蟇股、頭貫木鼻、蓑束等に室町中期の意匠を窺い知ることができる貴重な建造物である。 平成3年3月 滋賀県教育委員会 社頭掲示板 |
矢川神社 天平宝字六年杣川中流の矢川津の地に鎮座すると伝え、延喜式神名帳所載、甲賀八座の神社として知られる。もと杣川流域は二十二ヶ村開拓の祖神と仰がれ、杣一ノ宮と称された。中世を通じて甲賀五十三家を中核とする連合自治組織いわゆる甲賀郡中惣の参会がしばしば当社にて催された記録にみえている。 また、当社は古来請雨の霊験をもって内外に知られ、室町時代中期の文明四年大和国布留郷五十ヶ村より請雨の返礼として楼門一棟の寄進を受けた。現存の楼門(県文)これである。 天正年間、水口岡山城築城に際し当社別当矢川寺の坊舎が壊されるなど社頭が一時荒廃したが、慶長七年の検地帳に境内四町八反余とあり、慶安5年に拝殿、宝暦6年に本殿を再建し、正徳2年以来、水口藩の崇敬社に定められるなど江戸時代を通じ復興がはかられた。矢川の森から響く鐘の音は「水口八景」の一つ。矢川の遠鐘として親しまれたが、天保13年10月4日未明、この鐘を合図に数千の農民が当社に結集、幕府の検地反対の一揆を起こし十万日の日延べをかち取った天保一揆(甲賀騒動)は上甲賀の農民と当社との深い関係を物語るものである。昭和53年秋、拝殿を再建、同57年県俳文学研究会の手で「甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 蕪村」の句碑が建立された。 滋賀県神社庁 |
矢川神社 矢川神社由緒略記 矢川神社は奈良時代、聖武天皇が紫香楽宮を造営されたころ、すなわち7世紀前半・天平年間の創建と伝える。以来、甲賀開拓の祖神・杣川水系鎮護の神と崇められ、平安時代の延喜式神名帳に甲賀八座の筆頭の神社として登載された式内の古社である。 中世(鎌倉・室町時代)を通じて、郡内に勢力を誇った甲賀武士団の結合の精神的拠点として重きをなし、甲賀郡中惣の参会が当社に於いて開催されている。南北朝時代には近江の守護・佐々木氏と深い関係をもって北朝方に属した甲賀武士団の主力が当社に陣を置いて信楽に蜂起した南朝方に対峙した。 戦国時代には水口・岡山城の築城に際し.神宮寺の建物が運び出されるなど社頭の荒廃をみたが、江戸時代には水口藩の崇敬社に定められ、本殿の造営を始めとして境内の復興・整備がはかられた。 天保13年(1842)幕府の検地に反対して当社に決起した大規模な農民一揆は「甲賀騒動」として世に知られ、庄屋層を中心とする犠牲者は天保義民として郡民に記憶され追悼を受けており、社頭にも天保一揆のモニュメントが建てられている。 矢川神社の氏子・崇敬者 矢川神社の氏子区域は、江戸時代中期まで杣川流域22力村に及んだが、現在は甲南町内のうち寺庄・葛木・深川・深川市場・稗谷・森尻・宝木・杉谷・塩野の9大字、約1000戸で、これを「矢川本郷」という。 この氏子区域内に新しく開発された耕心区・希望ヶ丘区・希望ヶ丘本町区・ニューポリス区などは崇敬者区域であって、当社との関係の深い区域である。 また氏子区域出身者、近隣地区住民の崇敬も厚く、さらに全国各地の「矢川」姓を名乗る方がたも当社をこころの故郷として崇敬される。 矢川神社例祭 当社の例祭は、5月1日に行われる。氏子各字が順番に諸役を分担する郷中祭礼で「矢川まつり」の名で近隣に知られている。嘉永年間に作られた2基の神輿の渡御がある。子供神輿6基の練り込みもあり多くの参詣者で終日賑わう。 *宵宮祭前夜8時*神輿渡御当日午後2時 矢川神社の境内林 矢川神社は杣川の河岸段丘上に位置している。境内は延宝6年(1678)の検地帳に4町3反余とあり、その後多少の変動をみながらも当時の社叢の景観を今にとどめている。 昭和34年(1959)の伊勢湾台風によって樹齢500年を超える杉・槍の巨木が多数倒れ、神南備の森は壊滅的な打撃を受けたが、氏子の積年の奉仕により豊かなみどりを取り戻しつつある。 現在では杉・檜を主として、藪椿・樫・榊・槙などの照葉樹、クヌギ・カエデなどの落葉樹を交えた鎮守の森を目指して管理を行っている。 森の奥に鎮座する池原神社に通ずる小径に沿って山茶花・石南花・紫陽花などの花木も植栽され、訪れる人びとの心に安らぎを与えている。 境内主要建造物 本殿・拝殿・楼門・祭具庫・神輿庫・社務所(矢川会館)・参罷所・文庫・神橋(石造反り橋)・常夜燈・鳥居・境内末社(池原神社)・句碑(与謝蕪村)由緒碑、その他の建造物がある。 矢川神社の文化財 [滋賀県指定文化財・矢川神社楼門] 室町中期、文明4年(1472)大和国山辺郡布留郷50余ヶ村より雨乞いの返礼として寄進されたと伝える。文禄年間に大風で上層を失い、慶長年間に現在の姿に修復したという。 [滋賀県指定文化財-ふすま絵] 江戸後期の近江の画僧・横井金谷晩年の大作で、8枚のふすまの裏表16面に4つの図柄が描かれている。1つは棋書仙人図、他の3つは山水図で、いずれも4面でひと組となっいる。もと境内にあった矢川寺清浄院の書院に建てられていたもので、現在は滋賀県立近代美術館に寄託している。 [甲南町指定文化財・石造反り橋] 約150米の参道の終点にある下馬池に架けられた大型の反り橋で「太鼓橋」の名で親しまれている。 江戸初期・寛文11年(1671)に作られたことが社蔵の「そりはし万事日記」によって判明する。 [主な未指定文化財] 本殿〔江戸中期〉・文書約500点(主として近世}神像2躯〔鎌倉期〕・刀剣類3振・神輿(江戸後期〕ふすま絵8面〔曽我蘇白筆}・柿本人麻呂図(板絵) 由緒書 |
矢川神社 矢川神社は「延喜式神名帳」に甲賀郡八座のひとつとして記されだ式内社です。大己貴命と矢川枝姫命を祭神とし、中世には柚庄内二十二ヶ村の総社として「柚一之宮矢川大明神」と称されました。また甲賀の雨宮とも呼ばれ、雨乞い祈願の神社として知られていました。滋賀県の指定文化財である茅葺の楼門は文明14年(1482)に建てられたもので、雨が降ったお礼に大和国山辺郡(奈良県)五十ケ村から寄進されたと伝わります。 本殿は甲賀地方でも特筆すべき大型の社殿で、近江八幡の大工高木但馬により宝暦5年(1755)に造営されたものであり、三間社前室付流造の建造物として市の指定文化財となっています。 さらに境内地は近隣の五つの城跡とともに国指定史跡「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつに指定されています。元亀2年(1571)の山中文書によれば、矢川杜と対岸の新宮社(甲南町新泊)が飯道寺(信楽町宮町》と争論に及んだ際、甲賀郡中惣から選出された奉行衆により、「矢河下馬」前で裁定が行われました。甲賀の侍衆たちがこうした鎮守社を合議の場とし、神前で結束を固め、地城を治めるための処り所としたと考えられます。中世文書に描かれたそのままの世界を今もみることができます。 社頭掲示板 |
矢川神社 矢川は也加波と訓べし○祭神詳ならず○矢川村に在す 神社覈録 |
郷社 矢川神社 祭神 大己貴命 矢川枝姫命 矢川枝姫命と称するは、大國主の孫国忍富命の配にます神なり、本社創建の年は何時なるか明ならず、只社の略記には人皇以前とすれど信すべからず、されど矢川枝姫を合祀せるは、既に仁徳の朝なりといへぱ、其以前の古社たるか、随つて世の崇敬も篤かりしと見え、二の鳥居には小野道風の筆と称せらるゝ額あり、又今に伝らねど圓融天皇の朝、矢川大明神ω勅額を賜はわしこと有りと、醍醐天皇延喜の制小社に列す、後天正年間の兵乱により社殿悉く烏有に帰し、一時全く廃頽せしが、文明4年7月和州布留の郷五十余ケ村雨請の立願をなし。其の霊験ありしにより、報賽として寄進せし楼門のみは今に存す、元亀以前は極めて大社にして、其の氏子二十ニケ村に亙れりといふ、さるを後光明天皇の永承元年同境内鎮座の勝手大明神を旧社地新宮に遷祀し、旧氏子中新宮附九ケ村、三大寺附六ケ村併せて十五ケ村を引割きて之れを外氏子と称せり、明治9年10月村社に列し、同13年郷社に昇格せらる、境内5170坪(官有地第一種)は鈴鹿山脈に接近すれども、また近く横田川支流の平地に出づべき鉄道の便有り、社殿は有名なる楼門をはじめ本殿、拝殿、神樂所、氏子参集所などあり。 因に記す、神社覈録には本社は「矢川村に在す」といひ、神紙志料には「今深川村に在り、矢川大明神といふ」と見えたり猶考ふべし。 明治神社誌料 |