印岐志呂神社
いきしろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】印岐志呂神社 近江国 栗太郡鎮座

   【現社名】印岐志呂神社
   【住所】滋賀県草津市片岡町245
       北緯35度3分23秒,東経135度57分4秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】5月3日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】敏達天皇13年9月この地が悠紀に定められた
       元慶元年(877)5月19日正一位
       建久元年11月頼朝神殿神田を寄進
       建武2年(1335)12月建武の乱に社域が砦となつた
       慶長4年(1599)社殿再建
       寛永2年(1625)屋根の修理
       寛永6年(1629)社殿再建
       寛政4年(1792)3月造営
       明治9年10月郷社
       大正6年7月21日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】敏達天皇13年9月この地が悠紀に定められた
        移転の記録はない

   【祭祀対象】悠紀として稲霊
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造 檜皮葺
       幣殿・拝殿・社務所・神饌所・表門・手水舎

   【境内社】二ノ宮・三ノ宮・若宮・樹下神社・稻荷神社・奥御前神社

敏達天皇13年9月悠紀地方に定められたこの地に社が設けられ、印岐志呂は由岐志呂(由紀代)であるとしている。


印岐志呂神社

御祭神  大己貴之命 又の御名 大国主命
当神社は延喜式神名帳所載かつ国史現載の名社にして天智天皇の勅願により大和三輪の大社より御移祭あらせ給う近江国粟田郡常盤村大字片岡字伊岐州に宮柱太敷立て高天原に千木高知れる伊岐志呂大神と称し奉り大己貴命の御名は八千矛之神又は葦原之醜男とも申し奉り御神の御勇気は八千戈の如く此神一度勇を振るい給はば人恐れて面を合わすること能はざる実に武勇全備の御神なり、我が皇国の武を講じ国を治むる人誰か尊崇せざる者あらんや又御神は大国を守り給う御神なりとて家毎にご尊像を祀り日々崇拝するすること我が国の古風なり。地は是れ用明天皇即位2年夏悠紀方に定められし聖地にして伊紀志呂の名これより始まると云う。醍醐天皇延喜ご制定の時小社として祭らせ給い粟太8座の1に加えられし名社なり。爾来皇室のご崇敬篤く仁寿1年正月神位正六位神社叙せられ累進し陽成天皇の御宇元慶元年5月19日正1位に宣下さらせ給う。永暦年中源義朝尾州攻略の時頼朝野路の宿り遙かに大神を拝し奉り武運の長久を祈らる建久元年11月頼朝神殿神田を寄進せらる。建武二年12月足利尊氏逆心の時此江山の僧道場坊宥覚山門の義徒千余人を語らい尊氏の軍と戦い一夜の中に攻亡さる、其の時社殿炎上足利氏再興す。降って元亀3年織田信長佐々木攻伐の時兵馬神地に乱入す此の時古記神宝散逸せり。
慶長以後地頭観音寺家より屡々社殿造営せらる豊臣家の忠臣長束大蔵大輔及領主六角左京之大夫高頼等社殿を造営せらる又徳川家康大阪出陣に当たり品街道を進軍し親しく社前に額ずき武運長久の祈願せられたりと云う。

社頭掲示板



印岐志呂神社

創祀年代不詳であるが、天智天皇の勅願により大和国三輪大社から分祀されたと社伝にある。延喜式神明帳栗太八座の一で、用明天王即位2年夏悠紀地方に定められ印岐志呂と名付けられたことをもって社名にしたと伝えられる。
社伝に仁寿元年神位正六位に、また元慶元年正一位を授けられたとある。
永暦年中源義朝尾州攻略のとき頼朝の武運を祈願し、建久元年に頼朝この報賽のため神殿と神田を寄進された。建武3年正月比叡山僧宥覚が山門一千余を率いて足利軍高師直と戦った時、更に同年9月脇屋義助が延暦寺の山徒と共に尊氏の将京極道誉と戦って戦場となり社殿は勝亡したが、後足利氏によって再建された。
社殿棟札によると織田信長が佐々木攻めの時再び戦場となり社殿炎上したが、慶長4年に芦浦の観音寺詮舜が再建している。その後観音寺長賢も社殿を修理し、寛永6年社殿を再建した。今の社殿は寛政4年観音寺慈観が造営したものである。
明治9年郷社に列し、大正6年県社となる。
同7年神饌幣帛料供進指定。

滋賀県神社庁



印岐志呂神社本殿

草津市指定文化財
印岐志呂神社本殿
昭和60年7月11日指定
時代 桃山時代(慶長4年)
本殿は、棟札により慶長4年に観音寺第九世詮舜を本願に建立されたもので、造りは県下に多い庇前室付、三間社流造をとる。
前室には、正面及び両側面に菱格子戸を入れる優れた意匠を施しているほか、母屋には正面中央のみ幣軸溝の板扉とする以外すべて横嵌板を用いている。
なお、この本殿は観音寺詮舜、施薬院全宗らによって再興された日吉大社摂社園下神社本殿、同白山姫神社本殿と同形式の建造物となっていることは興味深いといえる。

社頭掲示板



印岐志呂神社
印岐志呂大神縁記 御祭神大己貴命は、世に大国主神(大黒様)の御名で広く知られている国土開拓の神様であり、古典の伝えによると、神代の昔少彦名命と協力してこの国土を拓き、農、工、商、すべての産業開発、方除、治病、縁結び等世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であられる。
後にこの神様の御自らの御思召しによって、その御魂(さちみたま、くしきみたま)を大和国三輪山〔奈良県三輪町〕に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を御神体として奉斎し神殿を持たない我が国最古のお宮である。
この神様を天智天皇(668−71在位)の勅願によって、この印岐志呂の聖の社に御分祀されたと社記にある。
用明天皇即位2年(585〕悠紀地方(ユキ)に定められた聖地で、ユキ代がイキ代となって社名にされたと伝えられている。延喜式(907)神明帳栗太八座の一で、仁寿元年(851)神位六位に、元慶元年(877)正一位を授けられている。このお宮は、創始以来、皇室の崇敬篤くまた、武将は武運を祈願し、神殿、神田、神宝など寄進されたが、度々戦場となり古記、神宝類は消失したと伝えられている。現在の本殿は、社蔵棟札によると、慶長4年(1599)芦浦観音寺詮舜が本願となって再建され、爾来、そのときどきの先人が修理保全に努められて現在に至っている。
玉垣の内に鎮ります二の宮、三の宮、若宮、十禅師社は、「いのち」の「もと」である「水」を、水系ごとに、また、氏子区域全体が用水の利用確保を協調協力によりはかることで、個々の生活安定と地域の繁栄、環境の保全を乞願い、宮座(グループ〉の産土大神様をお祀りされたお宮である。また、昔も今もかわりなく各里の産土大神様の「御神輿」を「大男、小男肩の高さは達えども、一つ祀で神輿かくなり」年毎のお祭りに奉仕している。

社頭掲示板



印伎志呂神社

印伎志呂は假字也○祭神詳ならず、或云大己貴命、○芦浦村に在す
按に、前なる高野神社にも由伎志呂の称あり、(伊伎由伎音通す、興地志に、伊伎は由伎の誤なりと云どしかるべからず、されど何れか訛なるべし。

神社覈録



郷社 印岐志呂神社

祭神 大己貴命
社地は是れ用明天皇の2年、夏4月悠紀方に定りし清地にして、印岐志呂の名も之れより起れりと、醍醐天皇延喜の制小社に列して栗太郡八座の一に加へられ、明治9年10月郷社に列せらる、処は琵琶湖東岸に近き平野に位して、何等要害なきところの如くなれど、梅松論には、建武2年12月京方の山法師祐覚山徒一千余人を語らひて此の処に拠りし事見え、太平記にも楠正成賊兵を防がむ爲め此の社林に籠りしことなど見えたり、社地は四周田圃を以て包まれ、本殿、拝殿、神饌所、中門、社務所、華表。秤所、など程よく配置せられ、3542坪(官有地第一種)の境内は森樹鬱蒼だり。 神社覈録、神祇志料、神名帳考証に、芦蒲村に在る由伎志呂宮を当社に擬したり、猶考ふべし

明治神社誌料



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