由岐志呂宮とも称している。大同元年(806)大嘗会のとき、悠紀地方としてこの地から新稻を進納したという。 高野庄の惣社であつて、地名が社名となつている。 |
高野神社 祭神 大名草彦命 秀峰御上山を背景に野州川の辺り、湖南の沃野に鎮座する延喜式神名帳に記された、粟田八座の一に列する、位階ある式内社である。 社伝によると、天智天皇の御代以降、高野造なる人がこの地一帯を開墾開発し、高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間、我が国で最初に鋳造された「和同開珎」の鋳師高野宿根道経一族が住んだことは有名であり、それらの人々の氏神として、祖先を祀ったのが当社である。 中世よりは通称「由紀志呂宮」又「由岐宮」として尊崇されてきた。これは大同元年(806)大嘗祭の悠紀方として新稲を進納したことに由来する。尚、正平五年、観応元年(1350)兵火に罹り社殿以下類焼す。氏子ら仮殿営みて祭祀十余年経て、貞治(1362)天正(1533)寛永(1620)と改築修造を重ね天保三年(1822)現在の社殿を建立する。 境内摂社として、土・水神を祀る「敏鎌神社」(二の宮)「八重釜神社」(三の宮)があり、共に農耕にかかわる大自然の神々で、本殿・二の宮・三の宮は何れも八角柱状の神木を御神体とし、御柱の信仰をとどめるものである。 大神宮は明治33年(1890)森勝稲荷社は弘化3年(1846)のそれぞれの再建であり、拝殿も安政5年(1856)の再建である。社前の楼門は室町時代の天文2年(1533)朝廷(現京都御所)の門を拝領移築したものと伝う。その際派遣された別当を松源院と申し爾来当社の坊として、天台宗総本山より住職を派遣され、又、数々の仏像・経巻等現在所蔵の文化財の寄贈を受く。尚、明治維新「神仏分離」により境外隣地に移し更に昭和20年(1945)現地に移築する。 鎌倉時代以降当社に対する武門武士の崇敬篤く祈願奉斎の事蹟多し。 氏子は古くは五十余ヶ村の総社であったが兵災や検地制度により、又組織上の事情により現在は六ヶ村(高野[小坂・土村・今里]・ 六地蔵・梅の木[六地蔵]・林)なり。 社頭石碑 |
高野神社 創祀年代は明らかでないが、社伝によると元明天皇和銅元年勧請とされ、高野庄の惣社であり、その地名が神社名となっている。又この社は由岐志呂宮とも称され、その由来は大同元年大嘗会のとき、悠紀地方としてこの地から新稲三束を進貢した為と伝えられる。 延喜式内栗太郡八座の一社で、文明15年の宗源宣旨にも当社を高野由岐志呂神と記され、吉田家より土御門天皇の勅によって大明神の社号を授けらている。 社殿については、社記によると貞治元年に改築され、寛永7年修造を加え、現社殿は天保3年に改築されたものである。また、表面の四脚門は宮城の門を拝領したと伝えられている。 明治9年村社に列し、大正4年神饌幣帛料供進指定、昭和9年郷社に昇格。 滋賀県神社庁 |
高野神社 秀峰三上山を背景に野洲川の辺り、湖南の沃野に鎮座する延喜式神名帳に記された栗太八座に一する位階ある式内社である。社伝によると、天智天皇の御代以降高野造なる人がこの地一帯を開墾開発し高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間(708〜714)我が国で、最初に鋳造された「和銅開珍」の鋳師(鋳銭師)高野縮禰道経一族が住んでいたことは有名であり、それ等の人々の氏神として祖先を祀ったのが、当社である。中世よりは、通称「由岐志呂宮」又「由岐宮」として尊崇されてきた。これは大同元年(806)大嘗祭の悠紀方として新稲を進納したことに由来する。南北朝時代戦火により社殿類焼するが、氏子等仮殿を営みて祭祀十年余経て貞治(1362)天文(1533)寛永(1630)と改築修造を重ね天保3年(1832)現在の社殿を建立し、平成9年に屋根を銅板葺に張替えられた。拝殿は、平成15年に新しく建替えられ、社前の四脚門は室町時代、天文(1532)朝廷(現京都御所)の古門を拝領移築したものと云う。その際派遣された別当を松源院といい、以来当社の坊として天台宗総本山より住職を派遣され、また数々の仏像・経巻等現在所蔵の文化財の寄贈を受ける。明治維新「神仏分離」により境外隣地に移し、更に昭和20年現地に移築する。 公式HP |
高野神社 高野は多加乃と訓べし〇祭神詳ならず○小坂村に在す、又は由伎志呂明神とも称す、 姓氏録、(右京諸蕃下)高野造、出自百濟國人佐平余自信之後也、また、(和泉國神別)高野、大名草彦命之後也・」或云、内額に由伎志呂宮大明神、正殿左方有二社、」称真釜、一社称焼釜、伝云、大嘗會時之悠紀之田に由ありと云々、此説本社考証の便りはなけれど、博覧の爲にのす、 連胤按に、此辺は百濟人の居し処なれば、高野造の氏社ならん、 類社 (欠く)。 神社覈録 |