小槻神社
おつきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小槻神社 近江国 栗太郡鎮座

   【現社名】小槻神社
   【住所】滋賀県草津市青地町873
       北緯35度0分4秒,東経135度58分39秒
   【祭神】於知別命 天児屋根命
   【例祭】5月3日
   【社格】旧郷社
   【由緒】天徳4年(960)志津池のほとりに遷座
       貞観5年(863)8月15日八幡神を本社の傍に勧請
       貞治3年(1364)神輿を造営
       天正元年(1573)社殿屋根葺替遷宮
       文禄3年(1594)社殿修理
       慶長17年(1612)2月領主土方氏神田安堵
       享保2年(1717)10月神輿新造
       明治9年村社
       同13年本殿改築
       同16年6月郷社

   【関係氏族】小槻山公
   【鎮座地】旧地を明らかにしない
       天徳4年(960)志津池のほとりに遷座

   【祭祀対象】司水神
   【祭祀】江戸時代は「池宮」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所・神輿庫・手水舎

   【境内社】日吉社・貴布禰社・八幡社

小槻大社が小杖宮とも称するのに対して、池宮と呼んでいる。
池宮の称より、この社はいつのまにか司水神的なものをもつようになつた。
小槻大社と共に小槻山公の祖神を祀る社である。
叢林深くよく目立つ。


小槻神社

祭神 於知別命
   天児屋根命
例祭 5月3日
小槻神社とは延喜式神名帳に載るところの旧粟太郡8座の内にあり第11代垂仁天皇の皇子於知別命より出て粟太に連なる山脈を守った名族小月山公の氏人が祖神を祀り産土神となすを始とします。天児屋根命は中世合祀され勧請年月不詳ながら旧記によれば貞観2年(860年)正一位小槻大明神の宣旨を賜うとあり、天徳3年(959年)志津池(香の池)の傍に遷座の頃より池の宮と申すとあります。
延慶宝暦年間二度社殿宝蔵を焼き惜しくも古記神宝を失いましたが天正9年(1581年)宗源宣旨正一位池の宮大明神号証を現存します。
貞治3年(北朝)(1364年)青地城主神輿造営以来例祭には城中に迎えて礼を尽し下戸山小槻社に向かい尚小汐井社を経て還御、後年これを廃し後日の証として瓶一個宛を別ち今も小汐井社の神宝となし当社は焼失した模様です。
弘長永禄年間崇敬厚い青地城主は幾度か寄進修造を重ねて明治14年後本社大造営の結果現社殿を拝し同16年郷社に加列せらる。
当社には伝来の龍神池竜王像を安置尊像を池中に沈めて喜雨を得近邑の人々大いにこれを祈ります。

社頭掲示板



龍王社

 龍神池由来
祭神 豊玉彦之神
祭日 1月15日
延喜式神明帳に見える小槻神社が天徳3年(959年)志津池のほとりに遷座の頃より池の宮と号し老樹茂る神前のこの大池に龍王像を祀り旱魃には雨乞いをかけて奇応あり村人大いにこれを祈る。
然るに後年比叡山の従人三丈坊某山田に住し歳旱せば神池の水を山田の用水に引かんとするを時の城主青地河内守は城の要害殊に神号ともあるを以って許さず。彼強引にも池に兵船を浮めて軍の催しをする等の暴挙に出て青地より観音城へ言上の末こは事重く郷庄の騒動なりと堤を切らせ水を捨て少しの池を森の裾に移して事治まり今に旱魃の雨乞いを願成就せずをいうことなし。
神のます御池をここに遷すより
幾世経るとも濁りさせまじ
青地河内守重頼
右池の儀は明神の御名宗源宣旨に書かれたることなればいと重き御事なり。と伝えられている。

社頭石碑



小槻神社

創祀年代不詳であるが、延喜式神明帳に載る栗太郡八座の一つである。
祭神於知別命(垂仁天皇の皇子)は近くに鎮る式内社小槻大社の祭神と同一であり、この地方に勢力のあった名族小槻山君が祖神として祀ったのが創祀といわれている。
天徳3年志津池のほとりに遷座されてから池宮と称し、天正9年宗源宣旨に正一位池宮大明神の号証を残した。このことから水神としての信仰もたかまり、伝来の竜王像を安置して歳干せば神池に浸し、喜雨を得て近邑の人々大いに尊崇した。
天児屋根命は中世合祀されたものである。又中世社地に接して館を設けていた近江国守護職佐々木氏の一族青地頼定は、貞治3年願主となって神輿を奉献し、以来例祭には城中に神輿を迎えて礼を尽くした。また幾度か社殿の修造寄進を重ねた。
当社境内並にその付近には古墳が群集しており、これは小槻氏と関係あるものとされ、この地方に小槻氏族が如何に繁栄していたかを物語るものである。
明治9年村社に列格、同14年大造営、同16年郷社に昇格した。

滋賀県神社庁



青地町 小槻神社

【祭神】於知別命(オチワケノミコト)
    天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
【創祀】年代不詳
『延喜式神名帳』にその名を留める栗太郡八座の一つである。旧記によれば貞観2年(860)に正一位小槻大明神の宣旨を賜り、天徳3年(959)、志津池(香ノ池)の傍に遷座して「池宮(大明神)」と改められ、近世に小槻神社となる。『日本三代実録』には、算博士小槻山公今雄らの算学に優れた人が名をとどめ、日本の数学のルーツともいえる小槻山公ゆかりの神社である。

社頭掲示板



小槻神社

前に同じ○祭神於知別命歟、(天児屋命と云説もあり)〇青地荘部田村に在す、今は池宮と称す、

神社覈録



郷社 小槻神社

祭神 天児屋根命 於知別命
創祀年代詳ならす、醍醐天皇延喜4年延喜式神名帳に載せ、小社に列す、村上天皇天徳3年当村池の邊に遷す、故に一に池の社とも称す、池を香の池といふ、其中に小祠を建て龍神を祀りしに、叡山の僧三丈坊なるもの私憤を以て此池を埋めたりといふ、後奈良天皇享禄3年領主青地河内守更に神池を社傍に営み龍神を祀る、時に河内守の歌「神のます御地をこゝにうつすよりいくよ経るともにごらざらまし」之より年旱すれば、龍神の像を池に沈めて雨を祈ると、正親町天皇天正9年11月神位を進められ正一位池宮大明神と號す、明治9年10月村社に列し13年郷社に列す、境内5170坪(官有地第一種)を有し、社殿は本殿、拝殿、向韓門、左右幣殿、神興庫、漱水舎等を具ふ。

明治神社誌料



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