小槻大社
おつきたいしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小槻大社 近江国 栗太郡鎮座

   【現社名】小槻大社
   【住所】滋賀県栗東市下戸山 1200
       北緯35度0分24秒,東経135度59分33秒
   【祭神】息速別命 (配祀)大己貴命
   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観5年863)12月3日従五位下『三代実録』
       同17年(875)12月5日従五位上
       元慶6年(882)10月9日従五位上
       延喜11年(911)2月2日従四位下『日本紀略』
       弘安4年(1281)10月青地基氏現宮殿を新造
       康永2年(1343)4月青地重頼四脚門建立
       康永3年8月(1344)正一位
       永正16年(1519)青地元眞本殿再建
       慶長13年(1608)戸田左門寄進
       明治9年村社
       明治14年郷社

   【関係氏族】小槻山君
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿一間社流造檜皮葺  昭和33年重要文化財
       幣殿・拝殿・神饌所・神輿庫・社務所・旧社務所・手水舎

   【境内社】十二将神社

この地方で繁栄していた小槻山君の祖神を祀つた。
小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上したという。


小槻大社

祭神  於知別命
大己貴命
主神於知別命は垂仁天皇の皇子で小月山君の祖である。日本武尊の御祖父にあたり近江国湖南地方を統治されその後裔の小月山公は連綿として本郡を領治し開発した名族である。この氏族は小槻山公及び小槻臣あり何れも当郡に住し続日本紀正倉院文書三代実録等にその氏人の記事が所載され小槻小伯称家壬生官努家もその後裔である。・・・・・小槻大社は小槻大明神と称し延喜式所載の祈年の奉幣に預かった粟太8座の一つで貞観5年12月(863)に従五位下、貞観17年12月には従五位上に登り元慶6年10月(882)さらに正五位下に進み醍醐天皇の延喜11年2月(911)には詔して従四位下を加え奉られている。・・・・康永3年8月(1344)正一位の極位に昇叙された・・・・代々綸旨院宣異国降伏の勲功少なからずとも記されている。中世には青地庄の領主青地家の尊崇篤く本殿内陣安置宮殿両側壁には弘安4年10月(1281)の年記のもとに青地氏一族の名を墨記し永正16年建立の現本殿は青地元真が造営している。戦国末期に及んでは青地氏その勢力昔日の如くならず慶長13年膳所藩主戸田左門は田三反奉納米五斗を寄進し爾後代々の藩主は先規に任せてこれを安堵した。明治九年社格制定に際して村社に列し命じ14年12月には郷社に加列された。例祭は古来卯月初卯日であったが明治改暦以降5月初卯日に定め明治42年より5月5日に改めた。

社頭掲示板



小槻大社

祭神 於知別命 大巳貴命
由緒 延喜式内社で、平安初期以来しばしば 朝廷より神階の沙汰があり 康永三年には正一位に叙せられた 名社である。近江守護代青地氏の 尊崇も篤く、現在の本殿は青地元真 の造営になる。
國指定文化財  本殿 永正16年(室町時代)

社頭掲示板



文化財

重要文化財(国指定)
本殿(附 宮殿1基、棟札2枚)(建造物) 室町時代後期の造営。昭和33年5月14日指定。
木造男神坐像 2躯(彫刻) 平安時代、11世紀初頭の作。伝落別命像、伝大巳貴命像の2躯。平成9年6月30日指定。主神像の伝落別命像は、ヒノキ材の一木造で、像高60.6センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。僕頭冠を頂き、朱袍を着る。
配神像の伝大巳貴命像は、ヒノキ材の一木造で、像高48.8センチメートル。持物の笏・垂纓は別材とするが亡失。幅広の冠を頂き、鬚を持ち、緑袍を着る。
滋賀県選択文化財
無形民俗文化財 小杖祭りの祭礼芸能 - 昭和63年3月31日選択。


小槻大社

創紀年代不詳であるが、この地の古代豪族小槻山君の祖神落別命を祀る式内社(栗太郡八座の内)である。小槻氏は奈良時代宮廷に釆女を貢進し、平安時代から明治の新政に至るまで一千年に近い歳月を宮廷社会に官務家として確固たる位置を維持した。『三代実録』貞観5年12月3日条に従五位下、元慶6年10月9日条に従五位上、『日本紀略』延喜11年2月2日条に従四位下の神位が小槻大社に授与されたことが見える。中世になると近江の守護佐々木の分流がこの青地庄に居を構え、地名を氏とした。この青地氏は小槻大社をことのほか崇敬し、青地基氏は本殿内陣安置の元宮殿を弘安4年10月に新造している。康永2年4月青地重頼は四脚門を建立し(礎石だけ残して建物はなく、墨書銘がある棟木は現本殿の力垂木に転用されている)、さらに同年12月重頼は上書して正一位の神位授与を官に請うた次第が『園太暦』康永3年8月29日条に詳記されている。この申請は裁可されて、正一位の神位が小槻社に授けられた。永正16年青地元真は現本殿を再建している。青地氏は佐々木の没落とともに運命を共にしたが、近世は膳所藩主より田三反歩を寄進され、以降先規に任せこれの安堵を受けた。明治9年村社となり、明治14年郷社に列せられた。配祀神大己貴命は何時合祀されたか史料をもたないが、境内を接して平安時代に栄えた名刹天台宗音楽寺(廃寺となりその跡に境内社十二将神社がある)があり、その関係から日吉西本宮が勧請合祀されたのではないかと推察される。

滋賀県神社庁



小槻大社

小槻は乎都支と訓べし○祭神小槻氏祖神歟〇青地荘山寺村に在す、小杖明神と称す(與地志は下砥山村と云り)
姓氏録(左京皇別下)に、小槻臣、垂仁天皇皇子於知別命之後也、
神位
三代実録、貞観5年12月3日辛酉、近江國少杖神授從五位下、同17年12月5日甲寅、授近江國從五位下小丈神從五位上、元慶6年10月9日戊申、授近江國從五位上小杖神正五位上、日本紀略、延喜11年2月2日、詔授近江國小杖神從四位下、
園太暦に康永2年(以下欠く)
按に、小槻大社、小杖明神同社なること、棟札に小槻大社、小杖大明神とあるにて明かなり、但し此札に所祭姫大神とあるはいかが、與地志異説なし、さて大社とあるは、官より称ぜられし松尾、貴布禰の類に非ず、却て此両社は、為大社の後も、なほ平常は大社と云はざりしなり、因て此帳にも大社とは載ず、当社は自称ながら、同郡小槻神社両社あればそを分ん為に大社とせしなるべし、伊勢國度会郡に川原大社、川原神社あると同じ、さはいへ、備前國御野郡石門別神社は同様に記ぜり、こは注進の備前國司郡司の心々なるべし

神社覈録



郷社 小槻大社

祭神 大己貴命
特選神名帳には於知別命を祀る由を記せり、神名帳考証、神社覈録、神祇志料皆之に同じ、按するに姓氏録左京皇別に、小槻臣、垂仁天皇々子於知別命之後也」とあれば、實にもと思はる、記して後勘を俟つ、於知命を日本書紀には息速別命と記せり)創祀の年代詳ならず、三代実録日本紀略に小槻を小丈小杖に作れり、類聚名義鈔に、杖をつくと訓するに拠る時は、小杖の小槻たる事明なり、況んや本社棟札文にも、小槻大社小杖大明神とあるをや、其大社と称せしは官より称せられし松尾貴布禰の類にはあらず、却て此両社は大社とはいはず、因って神名帳にも大社とは記されず、当社は同様ながら、当郡に小槻神社両社あれば。之を区別せん為に大社とせしなるべし「神社覈録神祇志料)、清和天皇貞観5年12月辛酉、小杖神に從五位下を授けられ、同17年12月5日甲寅從五位上に進め給ひ、陽成天皇元慶6年10月更に正五位上を加へ拳る〔三代實録)、一説園太暦による時は、醍醐天皇昌泰元年正五位下より正五位上に進め奉るといへり、延喜11年2月2日丁巳從四位下に進め奉る(日本紀略}、堀河天皇康和5年6月御トに、近江国小都恵神の神事を穢ぜる崇あるを以て、社司に中祓を科すとあるは此社の事なりといふ(朝野群載神祇志料)花園天皇延慶2年11月社殿炎焼す、其後青地河内守重頼社殿を造営す、之より青地氏の所願所となる(社記〕、後村上天皇興国6年8月丙戌、栗太郡小杖社神生源重頼奏して日く当社は国中無双の鎮守郡内五所の第一なり、凡そ、其位記を授くる例、貞観以来延喜に至るまで皆国史に詳なり、唯天慶3年より以来、天下の諸神一階を増し奉るの記数度あるを以て、建浩元年既に従一位相当に坐り、且年中神事甚多きが上に。殊に朝廷の為に天下の平穏を祈り奉る、願くは正一位小杖社の額を鳥居に懸けて、社頭を荘厳ひ、神明の威光を増し奉らん(園太贋)、霊元天皇天和4年2月9日本多隠岐守康慶より黒印を寄す、社格は延喜の制式内小社たりしが、明治9年10月20日村社に列り、其後郷社に進む、社殿は本殿、拝殿、回廊、神輿舎、倉庫等を備へ、境内876坪〔官有地第一種)あり、

明治神社誌料



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