三大神社
さんだいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】意布伎神社 近江国 栗太郡鎮座

   【現社名】三大神社
   【住所】滋賀県草津市志那町309
       北緯35度2分53秒,東経135度56分14秒
   【祭神】志那津彦命 志那津姫命 (配祀)大宅主命
   【例祭】5月3日 例祭
   【社格】
   【由緒】天智4年(665)中臣金連が志那2神を祭祀
       応徳元年(1084)大宅主命を吉田穴太包光が合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】若宮神社・蛭子社

叡山山門の守護神である三台権現に擬して三大権現と称した。
境内の老藤由来記には、藤原鎌足の長男、定恵が天武天皇の勅を拝し、藤原の隆盛を祈念して奈良県倉橋山の藤の苗を移植し、巨大な藤樹となったが、織田信長の焼討ちで焼失したものの株元から蘇生し、現在の藤樹になったとある。


三大神

草津市志那町309番地鎮座
祭神 志那津彦命
   志那津姫命
   大宅主命
由緒
天智4年(665)中臣金連が志那津彦、志那津姫の二柱を祭祀、これ延喜式内栗太八座の一つ意布岐神社である。
その後応徳元年大宅主命を吉田穴太包光が合祀。叡山山門の守護神である三台権現に擬して三大権現と称した。中世までは御公儀により修繕されていたが承応2年芦浦観音寺瞬貞法人によって再建せられたと伝えられる。永徳2年の縁起書には春例祭に馬上数十騎、歩行数百人の渡行が誌され志那三郷の大宮であった。現在の大鳥居に志那三郷中と刻書のあるのはその証であろう、また境内には紫藤一樹あって五百有余年の歴史があると言い伝えられている。
春例祭 5月3日
社宝 石燈龍 一基(正応4年刻)
   国指定重要文化財
般若経唐櫃 三箱 (応永4年銘書)
 市指定重要文化財
螺鈿の鞍 一台(鎌倉時代)

社頭石碑






三大神社

滋賀県指定自然記念物
滋賀県自然環境保全条例第21条第1項により指定
名称三大神社の藤
所在地 草津市志那町字吉田309番地
品種 ノダフジ 樹齢(伝承)約400年
指定理由
古老の言い伝えによると、当樹木は、天武天皇(673年〜686年在位)の命により、大化の改新で藤原鎌足の果たした功績を後世に伝えるとともに藤原氏の隆盛を祈念して植樹されたものであり、年を追って大きくなり巨木となったが、織田信長の兵火(推定1571年)により焼失した。その後、当樹木は、株元から芽生え、次第に繁茂して今日に至っている。
花は可憐な紫色を呈し、穂は長く、2m近くにもなり、「砂擦りのふじ」とも呼ばれ、地域の人々に親しまれている。
指定年月日 平成8年3月27日
滋賀県

社頭掲示板






三大神社

国指定重要文化財(三大神社)
石燈籠 一基
当社は天智天皇4年(665)創祀されたと伝えられ、吉田条里二十六坪「伊吹の里」に鎮座する神社である。
社前の石燈籠は総高2.3mの花崗岩製で笠まで六角形に作られた珍らしいものである。
基礎の側面は輪郭をまき格狭間を入れ、上部は反花を刻んでいる。竿は中央に三本上下に一本の節をもうけ、二面に正応4年辛卯三月日僧永□敬白」(1291)と陰刻の銘文があり製作年を明示している。
火袋の四面には、蓮華座の上に月輪をつけ内部には地蔵菩薩の種子「カ」を刻み、笠には大きな「ワラヒ手」を設けるなど極めて細かくていねいな造りで、鎌倉時代の石造美術を代表する貴重な文化財である。
昭和37年2月2日指定
草津市教育委員会

社頭掲示板



老藤由来記

古老ノ伝説ニ曰ク、聖徳太子十七条憲法ヲ 御創立シ給ヘリ、是ヨリ後中大兄皇子(天智 天皇)ト和州中臣鎌足等ト蘇我入鹿ヲ誅スル 事ヲ謀リ給ヒ、蘇我氏滅亡セル後内大臣藤原 鎌足公薨去セラレ飛鳥ニ葬リタリシカ其長子 定恵墓トシテ大和ノ談峯ニ改メ葬リタリ、然 シテ後天武天皇ノ勅ヲ拝シテ談峯ノ藤花ニ因 ミ藤原ノ隆盛ヲ祈念トシテ彼ノ倉橋山ノ藤ノ 苗ヲ移植セルカ年ヲ追テ成木シ巨大ノ藤樹ト ナリシヲ織田信長ノ兵火ニ罹リ巨藤亦焼失。 後株元カラ芽生エ次第ニ繁茂セリ今ノ藤樹ハ 即チ是ナリ

社頭石碑



三大神社

条里集落の遺構地吉田の里の中心、二十六坪小字伊吹の里に鎮座する。条理性に関係深い天智天皇の勅を受け大中臣金連が天智四年風神の二柱を祀った式内伊富伎神社がこれである。
その後応徳年間に穴太包光が大宅公主を合祀したと伝えられ、祭神が三神となったため邑人等三体神権現と称するようになり、伊富伎神社の称が消埋した。後に三大権現と称して支那三郷の総祭が当社で斎行されていたが、明治初年に三大神社と改称し各郷で例祭を行うようになった。
h 社殿については中世破損したため吉田大欲助穴太包元等是を修繕した、また江戸初期承応年間に芦浦観音寺舜貞法人によって再建され、以来三百有余年社殿老朽に耐えず依って明治9年浄財を集めて再建した。昭和55年屋根を銅板に葺替える。
尚詳しい由緒については永徳2年権律師法橋上人位実春に誌るされている。但式内意布伎神社については確証がなく所在不詳とされている。
境内の藤棚は開花期遠近の観客で賑う。
明治9年村社に加列。明治41年神饌幣帛料供進指定。

滋賀県神社庁





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