惣社神社
そうしゃじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】意布伎神社 近江国 栗太郡鎮座

   【現社名】惣社神社
   【住所】滋賀県草津市志那中町240
       北緯35度3分9秒,東経135度56分31秒
   【祭神】志那津彦命・志那津姫命
   【例祭】
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「伊富岐社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

式内社意布伎神社であったという。境内に存する石造宝塔は古様を示している。境内には藤の大樹もある。


惣社神社宝塔

志那中町集落の東よりに惣社神社がある。このあたりにはかつて大般若寺という寺院があり、江戸時代に描かれた大般若寺絵図が神社に伝わり、境内東北隅に伊富岐社という鎮守社が絵図にあってこれが現在の惣社神社にあたり石造宝塔も描かれているという。室町時代(嘉吉元年(1441年))に書かれたとされる「興福寺官務牒疏」によれば天武帝勅願、定恵開基、弘仁五年(814年)願安が中興、保延三年(1137年)再興という。「興福寺官務牒疏」の内容を鵜呑みにはできないが、南都系の中世寺院であったようで保延四年書写の大般若経の一部が神社に残されているという。(※1)宝塔は社殿の南隣、玉垣外に立つ。花崗岩製で現高約220p。元は9尺塔であろう。基礎は非常に低く、西側正面のみに二区の輪郭を巻き格狭間を入れ、残りは素面とする。向かって右の輪郭は大きく剥落して確認できないが、左の輪郭内の格狭間は、花頭部分の左右カプスが1つづつしかない。塔身は背が高く下がすぼまって重心を肩近くにおく棗形で、饅頭型部は、軸部上部を平らに整形し角を丸めた程度で、そこから太い首部が内傾して立ち上がる。正面にのみ大きく鳥居形の扉型を薄く帯状に陽刻しているほかは素面である。笠との間に平面方形二段の斗拱部を別石で挟みこんでいる。斗拱部の段形は厚く、軒先の厚みと大差がない。笠裏は素面で隅の軒反りはごくわずかであるが、上端の軒反りは力強い。笠は低く屋だるみは緩く伸びやかな印象で、隅降棟を作らない。頂部に低い露盤を削りだす。相輪は4輪までが残存し、風化が激しい。一具のものと見て支障なさそうである。伏鉢は低くその上の請花とのくびれは弱い。請花は単弁反花のようで、九輪部の凹凸がはっきりするタイプのようである。造立年代について川勝博士は鎌倉中期、田岡香逸氏は「これを大吉寺塔と比較するとき、一段と進化していることが明らかであり、最勝寺塔に比較すると、おのずから先行形式であることが理解されよう。つまり二塔の過渡形式であることに疑う余地がない」(※2)として文永5年(1268年)ごろと推定されている。非常に低い基礎、二区に分割した輪郭に異形格狭間を配する点、隅降棟を設けず勾配の緩く低い笠、斗拱部の朴とつとして洗練されない感じ、背の高い塔身の雄大な鳥居形の扉型、いずれも定型化以前の古調を示し、小生もやはり鎌倉中期、概ね13世紀中葉と推定したい。しかし「近江の宝塔中でも異色あるもの」(※1)と川勝博士が指摘するように、鎌倉中期から後期にかけて定型化し普及する大吉寺塔から最勝寺塔へ続く宝塔のデザイン系統とは少し異質なものを感じ、田岡氏がいうように二塔の過渡形式とすることには抵抗感がある。小生は別石斗拱型や扉型があることを理由に、扉型や別石斗拱型のない建長3年(1251年)銘の大吉寺塔より明白に新しいと判断するにはもう少し慎重になった方がよいのではないかと思う。斗拱型部を除いた全体のプロポーションは平安末期の沢津丸塔や鎌倉前期とされる京都東山の安養寺塔を髣髴させる惣社神社塔の方が大吉寺塔よりもむしろ古調を示すし、近江式装飾文様を備えた輪郭付き(一区)格狭間という定型化のアイテムは惣社神社塔にはなく大吉寺塔にあるのだから。

http://stone-stupas.no-blog.jp/sekizou/2007/06/__2c69.html






惣社大藤の縁起

欽明天皇13年我国に仏教が渡来してから125年を経た白鳳4年天武帝勅願「科戸山大般若寺」創建される也。地方造寺を以て仏教の興隆大陸文化交流と相俟って当鎮守式内意布岐神社へ参詣、神宮寺より惣社の神奈備に紫匂ふ藤を供へ、天武帝の除病延命仏法興隆を祈念するにはじまる也云々
詠 藤なみの 影なす海の 底きよみ
  しずく石をも 珠とそ吾みる(萬葉集)
斯して 当社御祭礼は神前で笛吹きの踊り子に初まり御馬神藤花を飾る御輿は勅願寺「神宮寺」へ御旅(御輿渡御)三奏「御詮 息災廷命叶う也」の神歌とともに往昔は「正月の三日僧正以下参詣」これなる密接な関係を以て現今に至るなり(参考文献史料)境内に植込みし藤は老大樹となり、毎年五尺にもなる花房を全面につけ咲き誇る五月晴れのもとで藤観の宴が催される也。
樹齢釣五百年
註 藤の若葉や花はゆでて食用とし、老木の池上部の茎にできる藤こぶは制ガン(胃ガン)剤に用いるという効用の説
旧郷社 惣社神社

社頭石碑



惣社神社

滋賀県草津市志那中町字吹気鎮座
惣社神社
一 祭神 志那津彦命 志那津姫命
二 境内社 猿田彦社 祭神 猿田彦命
愛宕社 祭神 軻遇突智命
一 由緒
 往古は科戸明神と称え、延喜式内名神に列せられる也。 斯して、「大津ノ宮」繁栄と共に、科戸ケ浦は湖上の要港 として、茲に尊崇され彌々以て、永い歴史と由緒を持つ 古社なり。
社記に人皇38代天智天皇4年乙丑右大臣中臣金連勅を承けて風神を鎮祭して意布岐神を尊崇せしに創まると云う
 古来、意布岐総社宮、総社大明神惣社神社等種々称号し、 梵刹、北志那大般若寺坊舎十二宇甍鎮守の神として崇め奉られ、奈良、平安、鎌倉各時代を通じて社頭大に繁栄す。 湖東志那三郷の惣氏神なり。之即ち延喜式内栗太郡八座の其の一意布岐神社、これなりと、昭和13年7月付郷社に昇格する。
四 主たる神事 芸能
風神踊 風招という大団扇を持ち、三奏の神歌とともに、天を仰いで行う例祭神事である。
五 例大祭 4月24日
特殊の神事 風神踊
当神社、境内域に往時を偲ぶ石造宝塔壱基を存す。 [鎌倉初期の製作なり]

社頭石碑



惣社神社

創祀年代不詳であるが、社記に天智天皇4年右大臣中臣金連勅を奉じて風神を鎮祭し意布伎神と尊崇したに創まるという。古来意布岐総社、総社大明神惣社神社等と称号し、志那三郷の惣氏神である。また北志那大般若寺の鎮守の神として崇められ、同寺の文書等にも当社が延喜式内栗太郡八座の一意布岐神社たるの所伝少くない。
尚式内社意布伎神社については確証がなく所在不詳とされている。
古来志那浜は湖西湖東地方との交通の要港で、この為湖上の往復頻数は風神の崇敬を益々盛んとした。今に斎行の風神踊は風招と呼ぶ大団扇を持って三奏の神歌とともに天を仰いで行う神事で、その三日前に斎行の「たんもり」(祭壇盛)も琵琶湖の八尋の沖より砂一艘取寄せて本社三盛、御旅所(神宮寺跡)一盛の造形を行う重儀で、その俤を残している。昭和13年郷社に昇格。明治44年神饌幣帛料供進指定。

滋賀県神社庁



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