此の地に古くから鎮座し本来は地主神であるが、大宝神社が主祭神となっているため、境内社としての位置付けとなっている。 大宝神社本殿向かって右手前に境内社として鎮座する。 |
大宝神社の由緒 旧名 大宝天王宮 祭神…素盞鳴尊(スサノヲノミコト) 当神社は、大宝元年(701年)疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に降臨された素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に4月8日ご鎮座。 これにより疫病が鎮まったと伝えられる。 同年5月1日社名を大宝天王宮と勅定、正一位とされた。鎮座の意は、「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」等の書物に見ることができる。翌2年から疫病が再び流行することを恐れて、健康を広く多くの人々に授かってもらえるようにと、神様に感謝して4月初子の日を例大祭と定めた。同年3月12日今宮応天大神宮の神号勅定。貞観(858〜867)以降、密教天台宗融合の両部(リョウブ)神道となった。 中世の大宝神社の祭礼、特に4月の例大祭・8月の相撲祭・雨乞い儀式は近郷50余郷の氏子圏に及び、綣村生人講を中心に盛大に斎行されていた。 また、境内の建物・建造物も本殿を中心に境内社34社、建物は神宮寺の様相にて三重搭大日・護摩堂・薬師堂・神楽堂・鐘桜堂・経堂等が建ち並び荘厳なる境内が正徳3年(1713年)の資料から伺い知ることができる。 永亨5年(1433年)6月18日、6代目将軍足利義教公は、天下安全可抽を祈願し神事領311石の地頭を寄進、その朱印は現存する。9代目将軍足利義尚公は、佐々木高頼公を近江に遠征させ、陣中上鈎村に当神社の遥拝所を建立させた。 天文14年(1545年)に佐々木定頼公により社殿の修復がなされた。 元亀2年(1571年)織田信長の山門破却の神領没収により地頭は、上地となった。しかし、天正(1573〜1591)慶長7年(1606年)の検地は、古来の由緒により免除地となった。寛文6年(1629年)8月12日徳川将軍家は、綣村に渡邊山城守を領地させ境内社日吉神社の燈明田一段歩を寄進、その後も他の社殿修復を子孫に継いで怠らなかった。正徳3年(1713年)小槻禅珠が西坊法橋宮内郷を授かり、同4年別当神應院禅珍は、法橋の官位を授かり百々御所(京都・宝鏡寺)への館入を認められた。 享保元年(1716年)7月宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願を当神社に依頼され、ご祈祷により全快され、そのお礼として四脚門両築地付をご寄進された。当初は、桧皮葺きである天明8年(1788年)9月御室御所(京都・仁和寺)より紋章付提燈(桜の二引)一対のご寄進があった。(現在も使用) 慶応4年(1863年)3月王政復古により神仏分離令と共に佛眼寺(京都四条道場時宗金蓮寺末寺大宝山)との分離、神應院の院号破棄により、同年4月社名を大宝神社と改めた。 公式HP |
追来(オフキ)神社の由緒 祭神… 多々美彦命 弘安6年(1284年) 棟札現存 国指定重要文化財特別保護建造物 鎌倉期 1間社流造としては日本最古の遺講 地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。 伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎(伊不伎)神社と記されている。社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。御神木は、いぶきで、意布伎の意は「オ」とも読めるため「オフキ」とよんで追来に転じたとされる説が有力である。 「イフキ」の「フキ」は、息を吹く、風を意味し風の神である。また、雨乞いにより雨を授けて頂いたので水の神でもある。 地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される。 公式HP |
追来神社の由緒 追来神社の由緒(延喜式内の一座とも言われたている) 地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。 伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎(伊不伎)神社と記されている。社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名でよばれている。御神木は、いぶきで意布伎の意は、「お」とも読めため、「おふき」とよんで追来に転じたとされる説が有力である。 「いふき」の「ふき」は、息を吹く、風を意味し風の神である。 また、雨乞いにより雨を授けて頂いたので水の神でもある。 地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される。国指定重要文化財特別保護建造物一間社流造 鎌倉時代1283年(弘安6年)の棟札現存 棟札も文化財指定 あまづか(通称には蛇池という) 1430年(永享2年)6月の文書中、干時にて苗が枯れつつあったとき、若宮権現追来神社裏手に大穴を堀り、田楽や神楽の奉納・大般若心経等の奉読等を続けることにより、2日後三昼夜適量の雨量があったとあり、仏法と神力は信ずるだけのことがある等が記されている。 その後の干時にも諸奉納とともに池をさらえることにより、適量の降雨に恵まれたことが丈書に記されている、由緒ある池。 社頭掲示板 |
若祭(追来神社例祭)4月1日 地主神社の例祭。現在は、守山地域がみこし当番であるため二町・伊勢・焔魔堂・今宿・阿村。大鳥各自治会の総代と責任役員が参列、村生人講の年番(綣−小平井−綣−霊仙寺−綣)講長・御幣持ち・雅児2名が参列。巫女・宮司にて斎行。 昭和40年くらいまでは、みこしを10数名で担いで大烏居まで渡御した。 みこしには飾り金具とか台棒なしで、大烏のみつけた。現代は、御幣のみにて斎行。 式典祭儀は、神前に神旗を供え御幣と葉桜の割り木2束を準備、祝詞神楽舞等式典の後参道を大烏居まで渡御。烏居前にあらかじめ中山道向かいの西田家から提供の藁一束が用意されていて、西田家より神火をろうそくに遷し提灯にて持ち出し自ら藁に点火する。燃え尽きるのを待って祝詞・神楽舞のあと、守山当番の総代が葉桜の割り木を参道側から石橋に背を向けて烏居に向かって、威勢良く放り投げ、一年間の吉凶を占うこととされている。烏居の上を越えるか、笠木の上に止まると吉とされていた。終了後行列して追来神社に還御し祝詞を奏して終了。 1816年(文化3年)〜1866年(慶応2年)の若祭渡覚帳に記されている文書の年番は綣北−綣南−七里とある。 社頭掲示板 |
大宝神社由緒 祭神 素盞鳴尊 稲田姫命 多々美彦命 およそ、当社草創の源流は、遠く大宝元年(701)悪疫流行の際、大字小平井より遷座を勧請、翌2年今宮応天大神宮の神号が勅定あり、さらに平安前期に至って大宝天王宮と称して広く五十余郷の総社となる。中世に至って将軍職足別氏、近江守護織佐々木氏等の庇護を受け、当地方の名族小槻氏の奉祀のもとに、社殿の修復等がすすめられてきた、また近世となるに及んで当地を知行地とした渡辺氏が御室御所より移築寄進した四脚門は今も偉容を誇っている。慶応4年神仏分離令にともない大宝神社ど改め今日に到る。 主神素盞鳴尊は天照皇大神の御第神で、荒ぶる神として人々を畏怖せしめたといわれるが直情径行ともいえるその御心は、むしろ清廉潔白な日本神道の魂が具現されたもので、さらに八岐大蛇退治を中心とする説話も、治水や稲作への御貢献を示すところであろう。 また、天王さんと呼ばれるのは、神仏習合思想にもとついて素盞鳴尊を牛頭天王と別称したことによる。このように広い御神徳は、氷く人々の尊崇をあつあて来たものである。 重要文化財 追来神社本殿 一棟 鎌倉時代 同 木造 狛犬 一対 同 県 文化財 木造 狛犬 一対 同 栗東町教育長 大川元一 謹書 社頭石碑 |
大宝神社例大祭の由来について 大宝元年(701年〉綣を中心とした広い地域に疫病が流行した。 人々はなんとか神様に疫病を鎮めていただけるように願ったところ、この願いが通じて人々は健康を取り戻した。 翌、大宝2年から毎年疫病が流行する初夏までに祭礼日を設定し、この日は神様に社より外に出てもらい疫病が広がっていかないように、みんなが健康で夏を乗り切れるように力を授けていただこうとした。 そのことが当神社の祭礼の由来です。 みこしができるまでの時代の渡御の形態は不明ですが、神籬(ひもろぎ)=神様が乗られる榊の枝に紙垂(しで)を取り付けたものをもって渡御をしていたと考えられます。当神社のみこしは、前面に神籬を取り付けて渡御します。 5月3日の夜、神様の分御霊を神籬に遷します。どのように遷っていただくか、当神社はひもろぎを振りかざすことにより御霊に活気づいていただき、願い事を聞いてもらい乗り遷っていただくものです。 5月4日は.ひもろざを取り付けた神輿の差し上げの儀(威勢良く宙に放り上げる)をしますが、神様の力を強めるという意味と神様に対する最高のおもてなしをするという意味があります。 ○天王のぬれねずみの意 天王とは、当神社の社名が江戸時代末期まで大宝天王宮で、古来日本4大天王の一つに数えられていた。 播州広峰−−−兵主神社 尾州津嶋−−−牛頭天王 京都−−−−−祇園社 江州栗太−−−大宝天王 祭礼日は、旧暦4月初子の日であるが、この日によく雨が降るためそのように呼ばれる。 〇神輿と宮座の名称 若宮神輿(守山地域担当)・大宮神輿(太宝地域担当) 十禅師宮神輿(治田地域担当)・さつきみこし(女性専用) 綣村生人講・小平井村生人講・霊仙寺村生人講 綣長老講・綣天王講(十八日講) 〇旅所について 南旅所 苅原(市川原)八幡神社・北旅所 焔魔堂 諏訪神社 大宝神社より出御し中山道を南と北と一年交代にての往復 祭礼及びイベント事業における主管は大宝神社・運営企画は大宝神社イベントスタッフが行い・賛助協力は各宮座・和太鼓集団 雷太鼓・綣二三四会・ボーイスカウト栗東8団により斉行 〇七年に一度の大渡し行事について 大宝神社の主祭神 スサノヲノミコト イナダヒメノミコトが疫病流行の祈、これを鎮めるために小平井に降臨され綣の意布伎神社(若宮)の鎮座する境内地までご案内役をつとめた村生人の人々を中心に、その模様の再現化した奉祝行列である。 時代の変遷に伴い、行列の形態はその時代に即応したものが行われてきたと推測される。 中世ころまでは、圧倒的に村生人講が少なくとも例大祭・相撲・雨乞い等の祭儀に主導権をもち独占的にかかわり、実行されてきた。 荘園制度崩壊後も采配主導権は村生人講にあったが、このころから村生人以外の組織氏子地域の参加として七つの年番制を組織しより盛大なる祭礼が運営されるようになる。 そして、綣・小平井・霊仙寺を含む地域が年番となるときを他の年番と区別して大渡しと称することとなる。 七年に一度の大渡しが斎行されてきた。古文書によると、渡し番という年番の交換が七つのグループになっていた @綣村五郷(綣・霊仙寺・北中小路・市川原・二町)笠川・阿・小平井・平井 A今宿・馬澤・焔魔堂・古高・長束 B上鈎・下鈎・寺内・安養寺・蓮台寺・糠田井 C駒井五郷(澤・集・新堂・十里・穴) D手原 E伊勢 F小柿・中澤 社頭掲示板 |
大宝神社 市指定文化財 史跡 石造足助楓崖碑 昭和36年4月11日指定第19号 大宝神社稲田姫社本殿 昭和55年4月1日 同 51号 大宝神社 当社は明治以前まで大宝天王宮・今宮応天大神宮とよばれ、 疫神を鎮める牛頭天王として信仰を集め古くは氏子圏が旧栗太 郡内の五十余村にも及んだと伝えられる。 祭神は素盞鳴尊で、本殿は棟札から弘安元年(1278)に 棟上げが行われたとされるが、現在の本殿は後世のものである。 境内社の稲田姫神社は一間社檜皮葺で旧名を十禅師宮とい い、本殿右側にある追来神社(重要文化財)を模して造営され たと思われる程よく似た江戸時代の建造物である。 また境内には明治初期近郷の子弟を多く集めて教導に尽くし た足助武雄(楓崖)の石造碑があり、市指定の史跡となってい る。 社頭掲示板 |