天皇神社
てんのうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小野神社 二座(名神大) 近江国 滋賀郡鎮座

   【現社名】天皇神社
   【住所】滋賀県大津市和迩中146
       北緯35度9分21秒,東経135度54分57秒
   【祭神】素盞嗚尊
   【例祭】5月第2日曜日 例大祭
   【社格】
   【由緒】宝亀3年(772)4月史書記載あり『続日本紀』
       承和元年(834)2月記載史書記載あり『続日本紀』
       承和3年5月従位下
       貞観4年(862)従四位下(三実實録)

   【関係氏族】小野氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

琵琶湖の西岸、志賀町和迩中にある。
966年(康保3年)に八坂神社の牛頭天王を奉還し、「和邇牛頭天皇社」と名乗ったのが始まりとされている。
現在の社名は、天皇神社だが、もとは牛頭天王社と称していた。


天皇神社本殿

重妻文化財建造物
天皇神社本殿
神社本殿は、全国的に流造の遺構が多いが、当町には、当本殿のように切妻造の母屋に向拝をつけた本殿が3棟あって、全国的にも珍しい。
当本殿は、小野神社職務歴代記に、「正中岩塩二月三日和邇牛頭天呈神社創建釿始同年十二月十九日上棟式云々」とあり、暦応4年(1341)建立の道風神社本殿より早くできた建物てある。正面中央間と側面の一間を幣軸板扉構とし、内陣平面を一間角とし、屋根勾配が著しく緩いなど道風神社本殿と相違する。
向拝廻りは後世の取替え材が多く形式も改作されたことが考えられるが、蟇股は、内部の彫刻を失ったものの雄大な輪郭は、創建年代の特徴をよく表してしいる。

重要文化財天皇神社 一棟
明治40年8月28日指定
桁行三間、梁間二間 一重 切妻造
向拝一間 桧皮葺 鎌倉時代
祭神 素盞鳴尊
寸法
身舎
桁行柱真々間 13尺3寸   (4.030m)
梁間柱真々間  9尺1寸4分 (2.769m)
棟高     20尺5寸   (6.212m)
軒高     11尺3寸2分 (3.430m)
向拝
桁行柱真々間  5尺4寸   (1.636m)
桁行出柱真々間 8尺7寸1分 (2.639m)
軒高     10尺7寸2分 (3.248m)
平成2年3月
志賀町教育委員会

社頭掲示板



天皇神社本殿

重要文化財 天皇神社本殿
明治43年8月28日指定
 天皇神社は、牛頭天王社と称し、天台宗寺院の鎮守社と伝えられる。祭神は素盞烏尋を祀る。
 現在の本殿は、隅柱に「正中元年2月3日釿始・・・」(1324)の墨書があり、よく鎌倉時代の作風を伝える。形式は三間社に一間の向拝をつけた屋根切妻造、桧皮葺の本殿。
 全国的に切妻造本殿は遺構が少なく、外観の整った優れた建物である。
昭和63年3月 滋賀県教育委員会

社頭掲示板



天皇神社

明細書によれば不詳であるが、社伝によると村上天皇康保3年和邇荘が崇福寺領であった時に京都八坂の祇園牛頭天王を奉遷して和邇牛頭天王社と称したと伝えられる。現在の本殿は鎌倉時代正中元年改造の社と云われている。明治9年天皇神社と改称し村社に列せられた。5月8日例祭は古式祭が中心で、卯ノ刻に斎行される南浜よりの神輿入れ、続いて南浜の御供、中浜の御供の奉幣祭、午後の湖岸御旅所まで、五基の神輿による古式の神幸祭は、現在もそのまま斎行されている。

滋賀県神社庁



天皇神社本殿

重要文化財 天皇神社本殿 1棟
明治40年8月28日指定
構造・形式
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺
時代
鎌倉時代 正中元年(1324)
祭神
素盞嗚尊
寸法
母屋
正面柱間 4.03m
側面柱間 2.80m
棟高 6.21m
軒高 3.43m
向拝
正面柱間 1.63m
側面柱間 2.64m
軒高 3.25m
神社本殿は流造の形式が多い中、天皇神社本殿は全国的にも稀な切妻造、平入の本殿で、県内の重要文化財では近隣の小野神社境内社篁神社本殿と小野神社飛地境内社道風神社本殿を加えて3棟にすぎません。建物の規模は、正面(桁行)三間、側面(梁間)二間で、全面に一間の庇(向拝)を付けます。正面中央間と右側面を幣軸構板戸両開とし、屋根の勾配が著しく緩い点が、他の2棟とは異なります。
天皇神社の創建は、社伝によれば康保3年(966)と伝えられ、元は和邇牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治9年(1876)天皇神社と改称されました。現本殿は、小野神社職務歴代記に「正中元年2月3日和邇牛頭天王社創建釿始同年12月19日上棟式」云々とあり、正中元年(1324)の建立と考えられます。
平面は、後方中央一間が内陣で、その周囲三方は外陣とします。向拝廻りのほとんど全ての部材と縁、脇障子、外陣正側面と内陣の建具、切妻破風と縋破風は後世の改造となりますが、外陣と内陣に加え、内部の彫刻を失ってはいますが蟇股は建立当初の姿を留めています。
江戸時代の、延宝6年(1678)から安政6年(1859)にわたる10回の屋根葺き替えの棟札が残されており、昭和57年(1982)に附指定となりました。

社頭掲示板



由緒の記 榎の宿

江戸初期慶長元年徳川幕府の一里塚設置によって西近江路榎の宿に榎が植えられる。
もともと榎の宿は北陸道穴太駅(第一駅)につぐ第二駅として平安朝以降、湖西の交通の要拠であった。
この宿から南方は穴太から京洛。西方へは竜華越から京都へ、東は和迩泊から湖上。北陸路は高島を経て若狭越前に通じる拠点であった。
近江聖人中江藤樹の門下生の一馬子が旅人に致良知の徳行を示したのもこの宿であり、藤樹の高弟熊沢蕃山もこの宿に縁をもち、栗原に蕃山文庫がいまも残っている。
古来、この榎は、天皇神社の神木として尊崇され、地区民は勿論、多くの湖西の人々に親しまれてきた。
明治百年のこ年、神木榎も360歳の齢に勝てず朽ちる。
神木榎、榎の宿を偲び有志一同、榎の顕彰碑を建立し、永遠に記念するものである。

社頭掲示板



天皇神社

てんのうじんじゃ 天皇と称す神社はいずれも祭神に素盞鳴尊を祀っている。したがって、社名の天皇は恐らく天王と同じで、牛頭天王(素盞鳴尊の略称と考えられる。
▼滋賀県志賀町大字和爾中。旧村社。祭神は素盞鳴尊を祀る。地方の古社で、本殿は元中年間(1384−92)の建立と伝え、重要文化財に指定されている。例祭8月8日。

神社辞典



小野神社二座 名神大

小野は哀能と訓べし○祭神小野氏祖、(其神号詳ならず)〇和邇庄小野村に在す、(考証に、二社相並と云り、)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、近江國小野神社二座、
類聚國史、弘仁4年10月丁未、從四位下左中弁兼摂津守小野朝臣野主等言、援女之興、國史詳矣、其後不絶、今猶見在、又緩女養田、近江國和邇村、山城国小野郷、今小野臣和邇部臣等、既非其氏、被貢援女、熟捜事緒、二氏之中、貧人之利田、不顧恥辱、拙吏相容無加督察也、云々、』類聚三代格、援女之養田、在近江國和邇村、山城國小野郷、云々、」姓氏録、(左京皇別下)小野朝臣、大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也、大徳小野臣妹子、家于近江國滋賀郡小野村、因以爲氏、」又云、、大春日布留栗田、又云、和邇部臣、和邇部朝臣、」古事記、(孝徳段)天押帯日子命者、小野臣之祖也、』続日本後紀、承和元年2月辛丑、小野氏神社在近江国滋賀郡、敕、聴彼氏五位以上、毎至春秋之祭、不待官符、永以往還、同4年2月癸卯、敕、聴大春日、布瑠、栗田三氏五位以上准小野氏、春秋二祠時不待官符、向在近江國滋賀郡氏神社
類社
(欠く)
神位
続日本後紀、承和3年5月庚子、授无位小野神從五位下、依遣唐副使小野朝臣篁申也」三代實録、貞観4年12月22日丙辰、近江國正五位上小野神、授從四位下、
封戸
続日本紀、宝亀3年4月己卯、震西大寺西塔、ト之、採近江國滋賀郡小野社木、構塔爲崇、充当郡戸二姻、

神社覈録



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