平地。叢林こんもりと目立つ。献灯の多い神社。 第五代孝昭天皇をはじめその皇子、天足彦国押人命とその三世の孫、彦国葺命あわせて須佐之男命をお祀りする。 彦国葺命は真野の遠祖で、その子孫が真野の入江の汀、神田(みとしろ)の地に神殿を建ててお祀りしたのが始まりで地名により神田神社称した。 普門の社を上社とし、当社を下社とする一体の信仰として成り立つていた。 |
由緒 当神社は延喜式神明帳に所載の滋賀郡八座の中の一座で第五代孝昭天皇・その皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその三世の孫、彦国葺命併せて須佐之男命をお祀りするお社です。彦国葺命は真野の遠祖で、その子孫が真野の入江の汀、神田(みとしろ)の地に神殿を建てお祀りしたのが始まりで地名により神田神社と申し上げます。 崇神天皇の10年(紀元前87年)命により武埴安彦率いる賊軍を討ち鎮められた知勇・学才誠に優れた方であり今日 厄除・災除・勝運の神と仰がれております。 二の宮(八坂神社、天王社とも称されていた)にお祀りされた須佐之男命は天照大神の弟神であり病除けの神として古くから信仰されています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
神田神社 御社名 神田神社(みとしろのかみのやしろとも云う) 御社格 延喜式内社(旧滋賀群八座の一)旧県社 御祭神 主神 彦国葺命 相殿 天足彦国押人命 二宮 (社名は別に棋神社とも称する) 孝昭天皇(第五代) 須佐之男命 御創建 嵯峨天皇・弘仁2年4月(811年) 御例祭 春の大祭(古式祭)5月5日 秋の大祭 10月5日 御由来 当神社は延喜式神明帳という書物に載せられている旧滋賀郡にあった八社の中の一社で、第五代孝昭天皇をはじめその皇子、天足彦国押人命とその三世の孫、彦国葺命あわせて須佐之男命をお祀りするお社です。 彦国葺命は真野の遠祖で、その子孫が真野の入江の汀、神田(みとしろ)の地に神殿を建ててお祀りしたのが始まりで地名により神田神社と申し上げます。 彦国葺命は崇神天皇の10年(西暦紀元前87年)命により武埴安彦が率いる賊軍を討ち鎮められた知勇・学才誠に優れたお方であり今日 厄除・災除・勝運の神と仰がれております。 二の宮(八坂神社、天王社とも称されていた)にお祀りされた須佐之男命は天照大神の弟神であり病除けの神として古くから信仰されています。 真野 「まの」と訓み、大変古くから開けた神気ただよう素晴らしい土地の意であります。万葉集をはじめ種々の和歌集に真野を詠んだ歌が数多く見られるのも歴史上大事なところ由緒のある土地柄であることがうかがえます。 近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の 高嶺の 花を見るかな 源頼政 社頭掲示板 |
神田神社 崇神帝10年に武恒安彦と其妻吾田媛が謀反を起こして帝都を襲ったとき、天皇が彦国葺命に討伐の詔を下され、命はこれを討ち平げ、宸襟を安じ奉った。 その彦国葺命の裔孫和珥臣鳥務大肆忍勝が部下を率いて真野の地に居住し、持統4年に真野臣の氏姓を授けられた。その裔孫達が嵯峨天皇弘仁2年真野の入江の渚に近いカンタの地に遠祖を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。 神階は正一位、延喜式内社で明治34年県社に列す。 毎年1月17日に斎行の幸在祭は有名で、当社は往古現在地より当方に鎮座されていたのを、現在地に遷座された、この時の古式を表した神事と伝えられ、沢組、北組、中組の三部落の男子全員が浄火を松明に点じ午後7時過ぎ沢の藤の木に集合、宮元沢組より七人の太鼓組が鐘太鼓組合せて「サンヤレ、サンヤレ」と囃す。全員揃うと神社に進むがその途中もサンヤレ、サンヤレと叫び練り狂い乍ら参進する。神社に着いて神事あり、宮元沢組は帰ると最後の大練を演じ、謡曲「四海波」を演じ終る。 また稚児祭も珍しい神事で5月5日村座四組が交代で神事番につき、神事番は少年六人を選びこれを「コマ」と呼ぶ、コマは早且特定の冠、裃を着け鞭を持って、神榊、供物、供奉一同の参進の監視役を勤め、列の先頭を掌る。御旅所での祭典の際コマは献餅の奉仕をするが、役員衆より受取る供物の榊、燈明、神酒、鏡餅、?の串焼、米飯等を石垣に叩き壊し、或は遠くに投げ飛ばす等々乱暴の極みをする、役員衆はこれを咎める事が出事ず、コマの為すままに散乱破壊した神饌を拾い集め、土砂の附着したままにて献ずるのである。 滋賀県神社庁 |
神田神社 かんだじんじゃ 滋賀県大津市頁野町。旧県社。祭神は彦国葺命。天足彦国押人命を祀る。社伝では嵯峨天皇の御代に和珥臣等がこの地に祠を建て祀ったのが始まりという。「延喜式神名帳」に列す。文亀年間(1501−03)に祭礼のことから氏子同志の論争を期に、同市真野普門町の神田神社と分散した。例祭は5月5日で稚児祭と称され特異である。1月17日の幸在祭は氏子の子供から老人まで男子全員がタイマツをもって参拝する珍しい祭りである。 真野普門町の神田神社の本殿は明徳元年(1390)の棟札があり、重要文化財に指定されている。 神社辞典 |
神田神社 神田は加牟多と訓べし〇祭神詳ならず○真野村に在す(考証に、今堅田村にありと云るはたがへり、眞野と堅田は二十町隔つる由、興地志に云り、) 類社 (欠く) 神社覈録 |
縣社 神田神社 祭神 彦國葺命 天押帯日子命 天押帯日子命は人皇第五代孝昭天皇の御子にして、近江の小野臣及び、和珥臣の祖なり、彦國葺は實に其の三世の孫にして、祭神の朝武埴安彦の乱を平げて功ありし人なり、本社は嵯峨天皇の弘仁年中和珥臣等、此地に祠を建てて其の祖を祀りしに始まる、されば初は和珥氏一門の氏神として、斎き拳るのみなりしが、漸く崇敬者の数を加へ、延喜の制に式内社に列せられてより社運益々隆盛に赴けり、然るに後柏原天皇の文亀以来、祭祀の事を以て氏子間に不和を生じ、為めに社頭の衰頽を見るに至りしが、更に正親町天皇の元亀年中兵災に罹り社殿悉く烏有に帰せり、後八十余年を経て、後西院天皇の明暦年間僅に再建せられ、以て明治に及びたり、9年10月21日村社に列せられ、次いで34年5月縣社に昇格せらる、社地は真野の西方丘地に位し、前に平地を控へ、極めて閉静なる神地なり、社殿は本殿一字にして、境内975坪(官有地第一種)あり、去る34年中上地林七反三畝三歩を境内に編入せらる。 明治神社誌料 |