古来この地は「苗鹿の森」と称し、今日では想像もつかない原始の大叢林を湖畔の一帯に構えた祭祀地であつた。 当社の近くにある雄琴神社とは古代から関連が深く。同族と考えられる小槻氏の祖神を当社に、今雄氏の祖神を雄琴神社に祀った。 神社近くには「苗鹿古墳群」と「法光寺古墳群」がある。 いまも上宮(末社=道を挟んで向かい側の那波加荒魂神社)と下宮(本社)に分れ、下宮の方を苗鹿神社と通称し、上宮はその御旅所のように理解されている。しかしいまも祭祀の上では上宮から下宮への神幸が行なわれ、上宮の社殿背後には小さな霊石が存し、社殿神道以前の古い磐座信仰の片影を留めている。 社伝によれば、祭神の天太玉命はこの地に降臨し太古から鎮座したという。老翁となった天太玉命の農事を助けるために、鹿が現れて稲の苗を背負って運んだので「苗鹿(なはか/のうか)」という社名・地名になったと伝える。 天台宗の根本法華経を護る三十番神の29日の神とされている。 |
県社那波加神社由緒略記 那波加神社 祭神 天太玉命 由緒 祭神 天太玉命大古より此地に鎮座し給う、天智天皇7年営社於知別命を配祀す。於知別命は崇神天皇の皇子小槻・・・なり。 平城天皇大同2年3月斎部宿根広成天太玉命の荒魂社を創立し本社の別宮とす。爾後本社を下の宮荒魂社を上の宮と称し 清和天皇貞観5年勘解由次官小槻□□今雄勅を奉・・領地の内若干を神領に附す。次で別当法光寺を創建す。 醍醐天皇延喜の制に名神に列せられ天太玉命一座延喜式所載滋賀郡八座の一なり。 後醍醐天皇延享2年綾小路二品親王并に法光寺々務後見定俊僧都の為め社領及寺領を押領せられ・に依り在大史小槻寄柄千宣上奏せし、同年6月14日勅使春宮大・藤原朝臣を以て其押領を停止せられ・・長者、氏の長者は小槻氏なり、永代・・すべき御・下れり。 同御・建武2年正月28日勅使庭田内蔵・重資朝臣を以て天下泰平祈願の奉幣あり。 正親町天皇永禄4年延暦寺僧徒の暴・の為めに社領及び寺領を押領せられ次で元亀2年・・・の為・社殿及建物等を焼失す。 後陽成天皇慶長12年以降氏子信徒等協力し社頭を修補し春秋古式の祭典を再興し、神殿を寄付して維持せしより・事を典することなり。 明治9年10月村社に制定せらる。 明治28年1月郷社に加列せらる。 明治35年5月30日県社に昇格せらる。 社頭掲示板 |
那波加神社 那波加神社(下社) 天智天皇7年(668) 境内牡 龍神社 夷社 宇賀社 大将軍社 那波加荒魂社(上社) 平城天皇大同2年(807) 境内社 大炊社 愛宕社 須古社 由緒 ご祭神「天太玉命」は、古よりこの地に降臨し、天智天皇7年(668)に神社を創建、垂仁天皇の皇子小槻氏の始祖「於知別命」を配祀し、平城天皇大同2年(807)には荒魂社を創建し別宮としたと伝えられています。 地名の由来も「老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け、苗(稲)を鹿が背負って運んだ」ことから、苗鹿となったと伝えられています。 この地域を治め朝廷の事務を司る小槻氏の崇敬を受け、延喜式神名張に名を列ねる式内社となり、建武2年(1355)には、天皇より勅使が差遣され、天下太平祈願の奉幣の記録も残っています。 比叡山延暦寺との関係も深く、円仁が横川中堂を建立したとき、苗鹿明神が内陣柱を奉加したことから、天台宗の根本法華経を守る三十番神二十九日目の守護神として全国著名大社の神々に並び崇敬されています。 元亀2年(1571)の兵火により社殿等を焼失し、慶長12年(1607)氏子崇敬者が一致協力して社殿他を再建し神社を護持しました。 明治9年村社、明治28年郷社、明治35五年(1902)に県社となっています。 現在、下の宮に一間社流造の本殿の他、境内に龍神社、夷社、宇賀社、大将軍社を祀り、上の宮には荒魂社本殿の他、大炊社、愛宕社、須古社の境由社をお祀りしています。 社頭掲示板 |
那波加神社 社伝によると、祭神天太玉命は太古より此の地に降臨し給うた。天智天皇七年に営社、於知別命を配祀する。於知別命は垂仁天皇の皇子小槻氏の始祖である。平城天皇大同2年に斎部宿禰広成が祭神の荒魂社を創建し別宮とした。これが飛地境内社那波加荒魂社即ち上の宮である。 延喜の制、延喜式内滋賀郡八座の一である。建武二年勅使奉幣の儀があり、元亀2年兵燹の為焼失、慶長12年再興された。 明治35年県社に昇格す。 滋賀県神社庁 |
那波加神社 那波加神社(苗鹿一丁目)の縁起には、祭神の天太玉命が、稲の苗を背負った鹿に導かれるとの記載があります。苗鹿の地名はこの伝承によるものといわれ「のうか」の読みは、社名の那波加が転訛したものとされています。 社頭石標 |
那波加神社 那波加は假字也○祭神太玉命、(三十番神注)○雄琴荘苗鹿村に在す、頭注に一名苗鹿とあり、今俗苗鹿明神と称す、 諸社根元記に、三十番神29日苗鹿とあえり、(拾芥抄同じ)卜部兼熈卿番神の注に、天太玉命化老翁、鹿負稻導之、故名焉と云う、(三十番神の事は首巻邇云り) 造営 神祇正宗に、人皇三十九代天智天皇7年営社、 雑事 考証に、那波加神社配雄琴神社爲小槻氏神、相伝那波加者宇賀御玉神也、雄琴者今雄宿根也、 近江國與地志略にも、土俗此社を壬生官務の氏神也と云り、連胤按るに、苗鹿村は古昔小槻氏管領の地也、是に因て苗鹿社を崇歌せること他に異なりとみゆ、又同村法光寺は今雄本願にて堂舎を建立し、(以下欠く) 神社覈録 |
縣社 那波加神社 祭神 字賀御玉命 相殿 今雄宿禰 祭神は一説に天太玉命なりと云ふ(神祇政宗、神社覈録、輿地誌略、特選神名牒)之れ蓋し卜部兼煕の三十番神苗鹿の註に、天太玉命老翁に化し、鹿稲を負うて之を導く、故に名づくる由いへるに據れる者ならん、また侍選神名牒にも、當祭神宇賀御玉命とあるを非として曰く「此社の祭神を宇賀御玉命といへるは、那渡加を苗鹿とも書くを以て、稲苗に附會せしものなれぱ信じがたし」といへり、果して孰れか是ならん、暫く記して後考を俟つ、創祀年代詳ならすと難も、天智天皇7年に社を營みし事神祇正宗に見えたれぱ、其古社なる事知るべし、博へ云ふ、比叡山横山の佛像はもと當社の神木を以て之を造れり、然るに六條天皇仁安4年2月5日焼亡す、依つて舊例に準じて、その再建用材を當社の神林に選ぷべしとなす、然れども神慮計りがたきを以て、同16日横川の學徳五十人當社に詣りて、百座仁王講を修せし事ありと(山門堂社記)、下野國誌に「後花園天皇寛正年中壬生官務家の庶流彦五郎胤業下野國に下向の時、雄琴明神を壬生城に勧請す」とあるは、帥ち當社より分祀せるものなりと云ふ、此地往古壬生氏の舊領にして、土俗此社は壬生官務の氏神なりといへれば、同族の崇敬は他に異なりしなるぺし、兎に角に早くより世に聞えたる社なり、社格は延喜の制小社たりしが、明治の初年村社に列し、同28年縣社に昇格せり。 社殿は本殿,拝殿、其他倉庫、獻燈所、井戸屋形等の建物を具ヘ、地は坂本村の北に隣り、西に横川嶺を擁し、東方琵琶潮を控へて眺矚絶佳なり、されぱ古より名所として知られ、金葉集に「松風の雄琴の里に通ふにぞ治まれる世の聲は聞ゆる」と詠めるは、實に此地なりとす、境内は363坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |