益救神社
やくじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】益救神社 大隅国 馭謨郡鎮座

   【現社名】益救神社
   【住所】鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277
       北緯30度25分38秒、東経130度34分18秒
   【祭神】天津日高彦火火出見尊
       (配祀)大山祇尊 木花開耶姫尊 鹽土翁尊 豊玉彦尊 豊玉姫尊 玉依姫尊

   【例祭】4月10日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大同元年(806)神封一戸
       貞享2年(1685)町田孫七忠以旧跡を求めて本社を再興
       文久3年(1863)社殿造営
       慶応2年(1866)4月造営
       明治6年県社
       昭和20年7月15日戦災で大破

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】本来は宮之浦岳を祀る
   【祭祀】江戸時代は「一品宝珠大権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       舞殿・拝殿・神饌所

   【境内社】

元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと考えられる。
かっては「すくい」と読まれる事が多かった。屋久島の宮之浦岳は遠くから見てもはっきりそれとわかり。交易船の航海の目印であった。宮之浦岳は航路標識としての機能は当然備えており、航路標識、澪標(みおつくし)の標(つくし)がツクイと変化し、スクイとなったとする。
かっては島の中央に雲の上から僅かに頭を出す宮之浦岳(1935m)永田岳、(1890m)栗生岳(1836m)の三嶽をそれぞれ島の鎭守御嶽として神霊を祀つた。島内の各集落からは直接には脊後の連山にさえぎられて仰ぎ見ることの出來ない御嶽の神霊を、その各集落の背後に峙つ高峯に移齋し、毎春秋二季にはこれを祭つて山麓の里宮に奉祭するのが恒例であつたとし、各々の里宮はその集落名を冠してそれぞれ「何字益救神社」と称していた。
明治維新までは、旧村18ヶ所に村落名を冠した益救神社があった。各地の益救神社の社号は幕末になつてから本社と混同される惧ありとの理由で、それぞれ現在あるような別個の社名に改められたものであると言われている。


由緒

1 益救神社は、天津日高火火出見尊を祭神として正祀する神社であります。
火火出見尊と申し上げる神様は、皇室の御系図でいえば、天照大神様の曾孫に当たり、第一代神武天皇の祖父に当たるかたであります。即ち、次のとうりです。
天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火火出見尊・鵜葺草葺不合尊・第一代神武天皇・第122代明治天皇・第123代大正天皇・第124代今上天皇
よく知られた海幸彦と山幸彦の兄弟の神様が、それぞれ仕事の道具をとりかえて海幸彦は山へ猟に行き、山幸彦は海へ魚釣りに行き、そして弟の山幸彦が兄さんから借りた釣り針を失って困っていると、塩椎神が現れて竜宮城へ案内し、そこで鯛のノドにささっていた釣り針を見つける話、あの山幸彦が益救神社の祭神の火火出見尊です。そして、この時に尊を助けてくれたのが、海神の娘、豊玉姫です。
尊は竜宮城で三年間姫と暮らし、豊玉姫に御子が生まれます。このお産にあたって、海辺のなぎさに、鵜の羽を葺草にして産屋を造りますが、それがまだ葺き終わらないうちにお生れになった勇ましい男の子が鵜葺草葺不合尊です。この鵜葺草葺不合尊が姨の玉依姫を娶り、お生れになったのが神日本磐余彦尊、即ち神武天皇です。
2 益救神社は祭神として前記七柱の神々を奉斎申し上げておりますが、伝記には創立年代不詳とされているのであります。
屋久島が初めて歴史に現れたのが第33代推古天皇の24年(西暦616年)に掖玖人が前後して30人、朝廷に貢ぎ物を献上した記録があり、第34代舒明天皇の元年(629年)4月に田部連という者を掖玖島へ派遣され、島民の皇化顕著なる御鴻業を垂れ給うと伝えられておりますとおり、すでに聖徳太子の時代から帝都との交通が行なわれておりました。
そのご、遣唐使船の往復に伴って南の島々は大陸との航路上たいへん重要視されることになりますが、九州一の高峰宮の浦岳頂き豊かな水と緑に恵まれた屋久島は、古くから航海者達の重要な目印であり、停泊、給水地でした。島影によって航路を確かめ、寄港して嵐を避け、水や食糧を補給したときの舟人達のほっとした安堵感、救われたという喜びはいかばかりだったでしょうか。益救神社が一名「救いの宮」とも呼ばれ、また古来、益々救われますようにと願い、今後もますます救ってくださる神様のお宮だという感謝の思いをこめて「益救」の文字があてられていることも頷かれるのであります。
はっきりした記録としては「延喜式神名帳」に「大隅国馭謨郡 一座 名神 小 益救神社」と登載されております。この「延喜式」と申しますのは、宮中における年中儀式や百官臨時の作法その他を詳しく記した公家法制の書で、第60代醍醐天皇の延喜年間に勅命によって撰進し始めたのでこの名で呼ばれております。完成したのは延長5年、西暦でいえば927年。弘仁年間、貞観年間に撰進されたものと合わせて三代式といい、延喜式は前二式をも併せ採っており、全体五十巻より成っています。そのうち、九巻と、十巻が「神名帳」と呼ばれているものです。 奈良朝の初め、神祇制度がそなわるとともに、全国的に朝廷の崇奉かかる官社を定め、これらの神社に朝廷から奉幣することになり、そのために神名帳がつくられるようになったのです。これは第45代聖武天皇の天平年間にようやく整ったといわれておりますが、その後、追加修正などがあり、やがて延喜式神名帳として完成され今日に伝えられております。
益救神社はそうした古い時代から官社として優遇され、大祭典には朝廷から神饌幣帛料の班幣の儀が行なわれておりました。かっては朝廷より派遣された国司の政庁が種子島の島間にあり、益救神社の例祭には国司を初め郡領などがそれぞれ島間崎の遥拝所から拝礼の式をあげるなど、屋久・種子両島民の鎮守の宮として崇敬を極め、大隅半島を考えに入れても、それらの代表となる高い格式をもっていたのであります。
3 しかし、時代の変遷はまぬがれず、第103代御土御門天皇の御代には戦国動乱の世となって国司政庁も廃止され、屋久島は種子島家の所領となります。そして、種子島時氏の法華宗を主体におく宗教改革によって本社も衰微荒廃の一途をたどり、古来の記録も失われ、ついに社殿も礎石を残すのみになったのです。
豊臣秀吉の朝鮮役後、屋久島は島津家の領地になり、藩政時代にいります。
こうして、貞享元年、島津藩士・町田孫七忠以という者が屋久島の宰領として着任し、益救神社の荒れ果てたありさまをみて大いに歎き、島民を説いて遺蹟ををもとめ、同2年(西暦1685年)、現在の社地に社殿を造営、ついにこれを復興させるに至ったと伝えられています。
時代くだって文久3年(1863年)、薩英戦争のあった年でありますが、時の藩主島津茂久公が藩政を改革し廃典を挙げるに際し、管内の神社を調べて益救神社の由緒と現状を耳にされ、ただちに小田原河内(藤原秀房)という神職を社司に任じ、翌年屋久島へ下したのであります。そして、当時この神社の社号が俗に「須久比ノ宮」「一品宝珠大権現」あるいは「三岳の宮」とさまざまに呼ばれていたのを旧に復し、「益救神社」と改め島津久光公の手になる扁額を神前に掲げ、御霊代の神鏡もあらたに鋳造寄進されたのであります。慶応元年(1865年)には社殿の改築もすすめられることになり、6月より工を起こし、翌2年4月竣工、官社の格式に違わない精巧な技術を施し、立派な申し分のない社殿でありました。
この時の建築工事に当たったのは、宮大工棟梁瀬島喜平次ほか10人、木挽5人、日用雑夫4人の計20人が藩から下され、他に地元木挽2人が加わって総勢22人であったと棟札に記録されております。
御祭神としては、貞享の復興当時における祭神=火火出見尊に配し祭った神々ありと伝わっておりましたが、判明しないので、正殿に火火出見尊、火須世理尊、恵美須ノ神を鎮めたてまつり、脇殿に塩土翁尊、豊玉彦尊、豊玉姫尊、玉依姫尊、大山祗尊、木花開耶姫尊合わせて九柱の神々を鎮め奉っておりました。明治4年に火須世理尊は川向神社へ、恵美須ノ神は川口の神祠へそれぞれ遷座申し上げ、現在は先述の七柱を斎き祀っているのであります。本社殿の竣工後、藩より社領六十石が供せられ、神官も五名奉仕しておりましたがそれぞれに高禄を下しおかれて、一切が藩費で賄われておりました。ところが、このような優遇も維新政府のもとに進められた廃藩置県と共に自然事止みとなり、社格も県社となりました。
明治19年(1886年)、氏子総代木原清右衛門等が島司新納中三宛に「益救神社昇格ノ儀ニ付請願書」を提出し、官幣社への昇格を請願いたしましたが、果たされませんでした。しかし、益救神社は古代以来の伝統をもつ宮として、全島民の崇敬によって明治大正、昭和と神威ますます盛んに発揚されていたのであります。
4 大東亜戦争の敗色も濃くなった昭和20年7月15日、アメリカ軍爆撃機より直撃弾を受け、本殿はじめ各社殿は大破いたしました。とりあえず仮殿を設けて御神座とし、「此の社殿改築の重責を一日も早く果たし、氏神の御心を慰め奉らんと日夜忘れる暇なく」と記録には残されておりますが、敗戦、占領下のすべてに困難な情況のもとに月日が流れ、昭和28年に至ってようやく再建の準備にとりかかる運びとなりました。
かつては官費によって賄われていた神社も今や全てを自費で賄わねばならず、境内地の一部と杉造林地内の杉二千余本とを売却、氏子諸士よりの浄財と合わせて工事資金とし、29年7月1日起工、建築資材は全て屋久杉を用い、同11月20日総屋久杉造りの壮麗な社殿が完成いたしました。
こうして、益救神社は戦災からも完全に復興改築され、御神徳いよいよ高く万民を照らし今日に至っているのであります。
一、祭典並びに特殊神事
例大祭 4月10日
七種祭、厄払、紐解祭 1月7日
月待祭 旧暦1月23日 前年に住宅を新築した人たちが向こう三年間、月の出を待って参拝する。併せて海上安全、出郷者の安全祈願を行ないます。
6月灯祭 7月15日 子供たちの描いた絵灯篭が境内一杯に奉納されます。
一、宝物
文久3年造営当時島津家より寄進された久光公直筆の社号扁額および桧造り神輿をはじめ木製彩色唐獅子一対、黒漆塗金蒔絵太刀二振、木製狛犬一対、出目満徳作の翁面、姫面各一個、錫制鶴首型瓶子、同水玉形瓶子、木製黒漆塗瓶子各一対などがあります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




益救神社

式内益救神社由緒記
御祭神: 天津日高彦火火出見尊
(山幸彦)
配祀: 大山祇尊 木花開耶姫尊
塩土翁尊 豊玉彦尊
豊玉姫尊 玉依姫尊
由 緒: 醍醐天皇の御代約千百年前勅名により国内の有名な神社を調べた台帳に登載された神社三千百三十二座の中の一座で掖玖島(屋久島)に名神として益救神社が記載されております。是を式内社と言います。
益々救って下さる神様「救の宮」又掖玖島が龍宮であるとして「一品宝珠大権現」として広く尊崇されております。
例 祭: 4月10日

社頭掲示板



益救神社

牛床詣所
上屋久町指定文化財 平成元年四月一日指定
文化財分類 記念物  文化財種類 史跡
屋久島は、宮之浦岳をはじめとする険しい山々が多いため、古くから「山岳信仰の島」でした。
ここは、山岳信仰の重要な行事である「岳参り」の折りに、家族が山に詣でた男たちを出迎えた場所です。女人禁制のため、岳参りに参加できない婦人や子どもたちは、日ごろここで遥か山奥の御岳を拝みました。
詣所は、いわば里における信仰の聖地であり、詣所内には、厄病退散や大漁祈願、安全祈願などさまざまな石塔が、六十余基ほど奉納されています。
中央にある石塔は、信仰の神である「彦火々出見尊(山幸彦)」を表わし、正しくは「一品宝珠大権現」と示すものが「一品法壽大権現」と刻まれています。このことは、法華宗(日蓮宗)の屋久島布教により、古来の信仰から、法華宗が混合した形の信仰へ移り変わったと考えられます。その石塔の銘文を読むと、法華僧も厄病退散のために、祈願をしていたようです。
牛床詣所は、屋久島の山岳信仰の実態と、石塔の銘文や形状から各時代の社会状況を示すものとして、民族的、宗教的に貴重な史跡となっています。

社頭掲示板



益救神社

伝記には創建年代不詳とされているが、延喜式神名帳に「大隅国馭謨郡一座名神小益救神社」と記載され、官社として優遇をうけ、大祭典には朝廷より神饌幣帛料の班幣の儀が行われた由緒ある社である。
屋久島が初めて歴史に現れるのは、33代推古天皇24年(616)、掖玖人が前後して朝廷に貢物を献上した記録からで、更に34代舒明天皇元年(629)4月、田部連という者を掖玖島へ派遣され、島民の皇化顕著なる御鴻業を垂れ給うと伝えられ、すでに聖徳太子の時代から帝都との交通が行われていた。
一名「救いの宮」とも呼ばれ、また古来より益々救われますようにと願い、また今後もますます救ってくださるお宮だという感謝の思いをこめて「益救」の文字があてられている。
古代以来の伝統をもつ宮として全島民の崇敬をうけ、明治以降も神威ますます盛んに発揚されている。昭和天皇御在位六十年を記念して、社殿の改造・社務所の新築を行った。

鹿児島県神社庁



益救神社

創立遼遠にして年代詳ならず延喜式神名帳に、「大隅國馭謨郡一座小益救神社」とある神社なり、当郡名は和名抄、類聚三代格、拾芥抄等の諸書に散見し、神社覈録に「当郡は所謂屋久島也」又同書に「益救は假字也○祭神在所等詳ならす、」と云へり、然れども神砥志料に「今屋久島の宮浦村一品浦に在り、須久比神と云ひ、又宝珠権現といふ、蓋し天津日子火々出見尊を祀る」と見えたり、特選神名牒亦此地とし且祭神は忍熊王子を祀るといへり、又神名帳考証は「益救神社、古事記云、火之夜芸速男神」とも云へり、祭神何れを是なりとせむ、宝珠権現の名の因て來る所を察するに火々出見尊とする方優れるに似たり、されば神砥志料も是れに從ひたるなるべし、さて此神は平城天皇の大同元年「益救神奉充神封一戸」(新鈔格勅符)ともありて、皇室御崇敬の跡も窺はれ、誠に有数なる古社なり、三國神社伝記に「宮ノ浦嶽宮ノ浦村に在り云々、其上に益救神石祠あり、一品法壽権現を祀れり、毎年秋八九月の比、里人参詣するもの多し、但婦女は禁制なりき、此岳絶頂より下十四五町許りに氷川と云ふ川あり、深さ膝を過ぐべし、登岳の物ほ汚穢を清むるとて此川に浴す云々、栗生嶽栗生村に属す屋久三岳の一なり、其絶頂に益救神社あり、祭神、(同前)一平石あり、其石上一穴の周廻一尺許、深さ二三寸なるあり、水泉常に湧出して溢れ、古より四季共に涸るる事なし、其水中に蚯蚓二つ常に居れり、土俗神の使属なりと云ふ、参詣の人其水と蚯蚓とを去り置くに、其皈る比ほひ素の如し云々、長田嶽長田村に属す、此絶頂に益救神云々、(同前)比岳四面嵩石催蒐として登跳の者は梯子+にて登るが如し云々」と記し、更に云はく「益救神社、宮浦村に在り、祭神一座彦火々出見尊是なり、(円石二つあり神体とす)延喜式云々、(同前)一品宝壽権現と称す、(或は須久比神と称す、而れども須久比に益救の訛なりと云、益救の字を訓にて称せしなるべし,)古来此処の地を宮浦、又は一品か浦などと呼ぶ、是れ其神社の鎮座せる故なり、社山の周廻十二町、其山上に神社あり、俗に権現堂と云ふ、久本寺より役す、当社は往古より此浦に鎮座せしに、中古以来悶島都て法華宗になり、宗外の神社、佛閣等は、尊重せざる風俗となりて、此神社も自然に廃壊し、宮浦には跡形もなくなりしと、然るに本府の士、町川孫七忠以屋久の宰官となりて、貞享元年甲子8月より宮浦に来居て、謂へらく、屋久は古來霊山の地なるに、其名のみにて神社の廃したるは淺間しと歎息し、云々神社の遺跡を尋出し、社堂を造営し、土人に勧めて同3年寅正月元日より参詣を始めたりとぞ、此の益救神社は宮ノ浦のみならず、御嶽の嶺三ケ所(前に略記)及島中所々に勧請せり、然れども此浦及び三山獄に鎮座せるもの本社なるべし」(三国名勝図会)と記し、又社記に拠るに、「本社義は古御嶽宮と称し、種子、屋久両島鎮守の社にして、造営修繕、一切官費に有之、文久3年藩庁庶政を改め、廃典を挙ぐるに随ふて、管内の神社を糺し、先づ本社を再興し、神領五十石を付せられ云々、(社記)此の文久3年の再興云々は、前記図会の記事中なる貞享の再興を誤り伝ふるか、兎まれ角まれ再興以来復た藩主の崇祀する所となりたる趣は、此神記に依り推知するを得、明治6年7月郷社に列す。
社殿は本殿、舞殿、拝殿、幣殿、渡殿等を具備し、境内地10740坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



益救神社

益救神社 やくじんじゃ 鹿児島県熊毛郡上尾久町宮之浦。旧県社。.天津日高彦火々出見命・塩土翁・豊玉彦命・豊玉姫命・玉依姫命・大山砥命・木化開耶姫命を祀る。当社の創立年代はつまびらかでないが、延喜の制、小社に列せられている古社である。大同元年(806)神封一戸を充てられた。
社伝によれば、上古は御嶽宮と称され、種子島・屋久島の島民の崇敬篤く、御嶽の頂上に神祠があり、全島18カ部落の人々は、春秋二季、参拝するのが恒例であったという。社殿の造営等は古くより官費を以て行ったといわれ、文久3年(1863)に藩庁によって社殿の造営が行われた。この時神料五〇石が寄進され、藩幣の社とされた。明治6年(1873)、県社に列せられた。社殿は戦災を受けたが、昭和29年に再興された。例祭4月10日。

神社辞典



大隅国NDEXへ        TOPページへ



順悠社