この地は大隅隼人反乱時代に隼人の拠つた要衝であつたとの伝承がある。 隼人の抗戦以後、平定統治で移住してきた政府軍(朝鮮:新羅系か)が祀った神社と思われる。 永正元年(1504)の棟札には奉祀三座と記されているが、明治に至り三座のうちの天児屋根命は加治木の春日神社に、もう一柱は、鹿児島郡武村の建部神社に合祀された。 かっては矢岳という山の頂上に鎮座していたが永正年間(1504〜1521)、現社地に遷座したという。 |
韓国宇豆峰神社 韓国宇豆峯神社 祭神 五十猛命 創建年代 不詳 神事 3月9日 新年祭 当日農耕 播種・奉射行事 例祭日 3月9日 旧9日9日 大隅五座のひとつ、「延喜式神明帳」に延長5年(927)大隅国贈於郡韓国宇豆峯神社小』とある。式内社で韓国○○神社と称するものは、出雲国6座、豊前国1座、天隅国1座である。大隅国設定の翌年和銅7年(714)に豊前国から200戸民を隼人教導のため大隅国へ移住させている。その移住者たちが建立したとも伝えられています。 『宇佐記』によると『欽明天皇32年(571)癸卯2月豊前国宇佐郡菱形池の上小椋山に祭られたのを当地宇豆峯の山項に遷座され、さらに国司の進言により1504年(永正元年)甲子12月現在の地に奉遷した」との記録もある。 神社由緒書にも豊前国から遷されたと明記されており、豊前国にゆかりのあることが椎定させられます。 昭和61年3月 国分市教育委員会 鹿児島県神社庁 |
韓国宇豆峰神社 創建年代は不詳であるが、続日本紀に大隅国設定の翌年・和銅7年に豊前国から200戸の民を隼人教導のため移住させたとあり、その移住者たちが国家鎮護として建立したものとも伝えられる。延喜式神名帳に「大隅国囎唹郡韓国宇豆峯神社小」と登載の古社である(大隅国式内社五社の一つ)。 宇佐記によれば、「欽明天皇32年(571)癸卯2月豊前国宇佐郡菱形池の上小椋山」に鎮祭、のち当地宇豆峯(現在、宇土門)の絶頂に奉遷鎮斎され、国司の進言により「謁祭に便ならざる」を以て麓の現在地小字内門(宇豆門の転化)に奉遷されたのは永正元年甲子12月なりとの記録があり、韓国大明神、韓国様と称される。 五十猛命は父神須佐之男命と一緒に韓国と我国とを往来して両国の友好を計り、我国に八十の木種を播布され一時枯山になっていた山林を青山と成し、檜は瑞宮の材に、杉・楠は船舶の材に、まきは葬具にと夫々仕様の道を定め、人々の食する柑橘他の果実をも伝えた。また海外との連絡を重視し、為に航海の道を教えられたという。「韓国」とは御祭神のこのような御事蹟により、「宇豆峯」とは山林の美称として名付けられたという。 上古は朝廷の崇敬も厚く、島津氏も藩費を以て式年の造営を行い、義久・吉貴両公は特に尊崇した。明治4年5月に県社に列せられ、現在の社殿は同40年に改築され、その後修繕を加えたものである。 鹿児島県神社庁 |
韓国宇豆峰神社 創建の年代詳ならねど、延喜式神名帳に「曽於郡韓神宇豆峯神社」とある神社なり、神名帳考証に「五十猛命日本紀云、五十猛命天降之時、將樹種而下、然不殖韓地尽以持帰、始自筑紫、凡大八洲之内、莫不播殖而成青山焉」神社覈録に「字豆峯は島頭美禰と訓むべし、祭神五十猛神、韓神、曾富理神(山陸考の或説天児屋根命と云今従はず)國分郷上井村に在す(神社考)とあり、三国神社伝記に「韓國大明神鎮座於國分上井村、所祭天児屋根命(永正永禄棟礼に祭神八座と見えたり今詳ならず)鎮座年月詳ならす、宇豆峯(俗曰矢嶽)本郷山元門之上に在り此所上古鎮座之地也、今之社頭は此所より辰巳方四五町許下之地也、宝暦5亥5月より造替、同20日宝殿柱立云々、井上宮内並中馬釆女(略)其外諸人出會遷宮有之、祭米一石二斗、按今韓國嶽と云は、霧島の西嶽也、此を韓國と云へる事、古事記云天津日子番能邇々杵尊云々天降坐于筑紫日向之高千穂之久士布流多氣云々、於是詔之、此地者向韓國真来通笠沙之御前而朝日之直刺國、夕日之日照國也とあるを、伊勢人本居宜長が説に云、於是詔之云々、此処の文は必す於是膂肉韓国眞来通笠沙之御前而詔之、此者云々とありけむを、詔之此地者の五文字錯れて上に移り、膂字脱、肉字は向に誤れるものなり、其故は、書紀に膂肉之空國、自顧宮覚國行去云々などある文ともと合せて思ふにも、又語のさまを思ふにも、真来通の語は必地の語にして詔ふ御言には非ずかし、韓は借字にて空虚國の義にて、即ち書紀の空國なり、さて膂肉空虚國は書紀の口訣に、膂穴之空國、仲哀紀曰、熊襲國者何之空國也膂脊也無肉以膂不毛之地と云ひ、簒■に空國即不毛之地とあり、これらの意なり、神名帳大隅國曽於郡韓國宇都峯神あり、此韓國も此処なると一つと聞ゆとあり、韓國の名は此考の如くなるべきか、韓国嶽と字豆峯とは今其間相去ること里許もあるべし、されど古に韓国と云ひしは其指す所廣かるべし」と記せり、地理纂考には祭神に就きて「上井の宇豆峯社は祭神の説区々にて、社伝は児屋根命なり、一説には五十猛命、韓神、曾富理三坐にて、其中二坐は甲冑を帯び軍装の形なれば、韓国防禦の爲めに築きたる城跡なりといふ云々」とあり、社記に「字豆峯とは山林の美称なり、旧社地は其嶺に在り、土俗に宇治と称す、今の地へ遷座は永正以前なるべし、永正元年甲子12月棟札に奉仕三座とあり、又当社所在の字を内門と云、内門は宇豆門なりしを後世内門と訛りしならん、隣地の字に美の前と云ふ所あり、是れ亦峯の前にて宇豆峯の前なれば云ふなるべし云々」とあり、明治6年5月縣社に列す。 社殿は本殿、向拝、廊下、拝殿、神饌所等を具備し、境内地3840坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |
韓国宇豆峰神社 鹿児島県国分市上井。旧県社。祭神は五十猛神。創建年月は明らかでないが、延喜の制(927)小社に列せられている古社である。祭神五十猛神は、航海と造林の守護神として、古来衆庶の崇敬篤く、社号の韓国は外国を意味し、航海を意味するとともに、宇豆峯は、山林の美称であるという。当社は初め、宇豆峯という山の嶺に鎮座していたものを、永正年間(1504−21)に現在地に奉遷した。また永正元年(1504)の棟札には奉祀三座と記されているが、明治に至り三座のうちの天児屋根命は加治木の春日神社に、もう一柱は、鹿児島郡武村の建部神社に合祀された。明治4年(1871)5月14日、県社に列せられた。例祭は3月9日、春祭2月20日。夏祭7月20日。秋祭11月20日。 神社辞典 |