海に面している。山裾の社。左右に大銀杏あり。神武天皇東征前の仮宮の跡という。 |
宮浦神社 宮浦神社御由緒 御祭神 十三柱を奉祀する 天神七代 國之常立神、豐雲野神、宇比地邇神、妹須比地邇神 角杙神、妹活杙神、意富斗能地神,妹大斗乃辨神 淤母陀琉神、妹阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神、伊邪那美神 地神五代 天照大御神、天之忍穗耳尊 天津日高彦火邇々杵尊、天津日高彦火々出見尊 天津日高彦波限建鵜葺草葺不合尊 神武天皇(神倭磐余彦尊) 平安中期の延喜式に見える大隈五社の一と言われ極めて古く、宝暦2年正一位の宣下があって昔から崇拝の高いお社である。寛政3年大火のため社殿古記録類焼に及んだがその後島津藩主の御造営によると伝えられる。鎮座地は神武天皇御東征遷前に度々おいでになった仮の宮居であった処と言われている。天皇大和入の途すがら難路を超え難事に堪えて目的を達成され又137歳(古事記)の長寿を保持された御神徳崇めて運勢の強い長生の神様として信仰深いお社である。 主なお祭日 春祭 4月3日 夏祭 旧暦6月18日 社頭掲示板 |
宮浦宮 醍醐天皇の御代、延長五年撰集の延喜式神名帳に所載の由緒ある古社である。 桃園天皇の御代、宝暦2年12月18日従二位神祇権大副卜部兼雄卿の昇階の事が天聴に達し、正一位の神階を授けられ、さらに勅許により御幣十三体を内陣に納め、「正一位宮浦大明神」の勅額を正面鳥居に掲げるところから、宮浦大明神と称される。 宗源勅旨の内容は、当社の御祭神の嫌いな事として、氏子が麻苧を作ること、正月25日(神武天皇の旅立たれた日であり、明治以前はこの日が例祭日であった)以前に機杼織ること、同日以前に灸をすることの三つがあって厳しいので、神位の昇叙により神慮の寛恕を得る事が記されている。 他に神武天皇に因み、「御駐蹕伝説地宮浦」と記した石碑や「腰掛石」と呼ばれる座椅子型の石があり、北方3キロ程の海岸に突出した若皇子鼻という地名は、かつてこの地を巡幸した神武天皇の若い時の御名・若御毛沼によるとの古伝がある。 社殿は寛政3年の大火で類焼し、当時の26代藩主斉宣公が再興したものといわれる。 鹿児島県神社庁 |
宮浦神社 延喜式神名帳に「曽於郡三座並小宮浦神社」とある神社なり、三國神社伝記に「鎮座於曽於郡福山郷旧名廻郷当社鎮座年暦不詳、天神七代地神五代の神と神武天皇までを併祀るとも云へり、神体宝鏡三面木橡三体、頼政卿鵺を射給ひし時の賞に、近衡帝獅子丸と云劔を下し給ひしと云々、卿の子孫廻に下向して、右の剣を当社の宝殿に納、今に現在すと云、当社正一位の神位は宝暦2年申4月産子中より願出、同12月18日宣下、同3年酉5月15日宣位記官幣奉納、御領國の内勅許に相成候神社は初ての儀なり、祭米三斗五升、獅子丸劒長七寸四分、金剛劒長六寸八分、神武天皇御劒と云伝、普門品一帖、右文政4年8月齊興公より御奉納、寺社奉行所より書附一通相添」とあり、又地理纂考に「宮浦社は宝暦2年正一位宣下あり、その勅宣を所藏す文に曰く、西海一方、赫々威光、洋々神恩、萬世永沐厥徳宜授極位以耀祠壇云々、毎年の例祭に射怯を行ふ、是れ源三位頼政鵺を射し旧式にて、往昔頼政の裔孫、兵庫太郎宗綱、当郷を賜はりて累代仁田尾城に住しだり」 と見えたれば、頼政の剣を奉納せりと伝ふるは証拠あることなり、社記には授位を享保2年と云へり、今は地方史の説に基きて記しつ、(明細張にに享保11年12月18日宜位記下賜、同12年5月9日城内へ奉遷記録所に安置とあり)明治6年5月縣社に列す。 社殿は本殿、舞殿、拝殿を具備し,境内地762坪(官有地第一種)あり、風景佳絶なり。 明治神社誌料 |