天平宝字8年(764)12月大隅薩摩両国の堺に神造新島三島が出現した。今の隼人町邊田小島・沖小島・辮天島である。(現社地の沖数キロの場所にある) 初め神造新島のうちの宮州(宮瀬ともいい現在は海面下にある〉というところに鎭座があつたという。その後島くずれのため現地に遷という。 延喜5年(905)正月当時にはすでに宮州は海面下に没していた。 『国分諸古記』・『神社仏閣帳』では、当初は奥州津軽山に鎮座したとし、日向国串島、大隅国福瀬之渡、福島村を経て小村の当地に鎮座したとする伝承を記す。 |
大穴持神社 祭神 大己貴命、少彦名命、大歳命 創建年代 宝亀9年(778) この神社は、光仁天皇の時奥州津軽山に鎮座されていた、その後勅命を以って神造島(今の小島)に遷座したが、島くずれのため現在の場所にうつされたと伝えられている。「医療の神」として、また「まむしよけの神」として崇められている。 地元の人たちは普通「おなんじさあ」と呼んでいる。 社頭掲示板 |
大穴持神社 創建年月は不詳であるが、延喜式内社の一社で、神明帳に「大隅国囎唹郡大穴持神社」とあるのは当社のことである。 国分諸古記によると、大己貴命は昔奥州津軽山に鎮座されていたが、西国に守護神が少ない故に勅命を以て西国の鎮守として下向された。常陸国の橘氏、宮永氏四人の兄弟、岩元氏の一族等一行二十五人で神輿の前後を守護し、奥州水の渡、津軽山より負い下って日向の串島にお着きになり福山迄来られたが、よい舟がなく敷根迄道を作って(神割坂)おいでになり、敷根から舟で大隅国福瀬の渡に着船、そこで福島村にお仮屋を作られ、その後小村(今の広瀬)に本宮をお作りになったとある。 大己貴命が農道を歩いておられる時、犢牛(コッテ牛−雄牛のこと)が突進して来たので、麻畑に遁れたところその麻畑にいた蝮に咬みつかれたとのこと。その為命が犢牛と麻と蝮を嫌われるので、広瀬では犢牛を飼ったり麻を植えたりすると家が栄えないといわれ、昔からこの集落には馬は多数飼われていたが牛を飼う人は殆どいなかったと云われる。又此の集落を中心に、天降川と検校川の間には蝮が生息しないを云われている。名前を沢山お持ちの神で、医薬・温泉・醸造・武運・開運招福・交通安全・病気除け・厄除け・縁結び・安産・家内安全の神として知られ、現在は広瀬集落の氏神として崇敬篤く、殊に古来蝮除けの神として郡内始め県下各地からの参拝者が多数ある。 鹿児島県神社庁 |
大穴持神社 天平年間の創立なりと称す(社記)、延喜式神名帳に、大隅国曽於郡大穴持神社小とあるは即ち当社なり、続日本紀に、天平宝字8年12月、是月西方有声、似雷非雷、時当大隅薩摩両國之堺、烟雲晦冥、奔雹去来、七日之後乃天晴、於鹿見島信爾村之海、砂石自聚、化成三島炎気露見、有如冶鋳之爲形勢、相連望似、四阿之屋、為島被埋者、民家六十二区、口八十余人云々、天平神護2年6月己丑、大隅国神造新島、震動不息、以故民多流亡、仍加賑恤」また「宝亀9年12月甲申、去神護中、大隅国海中有、神造島、其名曰大穴待神、至是為官社」類聚国史に、「弘仁5年2月乙酉大隅國曾於郡造島神預幣帛例」等見え、地理纂考以上の諸記を引きて、「三島始め鼎足の如くなりけんを、天平神護2年の震動に、一島は崩れ平島とはなりにけん、又其平島には彼大穴持神社を建てしを、後世更に小村濱に移し、平島には宮洲の名を遺せり」といへり、更に之を地方誌を見るに云はく「鎮座於曽於郡国分郷小村今属桑原郡、里俗伝云、当社は海中の島に在りしが、浪に洗はれて社難立、故に小村の渚に奉移、其後今の松林に御鎮座なり、干今海中に宮洲(一に宮瀬)と云洲あり、是れ上古の宮址なり云々、(神社傳記、名勝考及名勝画曾等に拠る)旧藩時代、島津氏世々崇敬し、吉貴公以来御家督初に白銀を進納し、又毎年祭米三斗五升五合を寄せしといふ、明治6年5月縣社に列す。 社殿は本澱及拝殿を備へ、境内地2183坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |
大穴持神社 大穴持神社 鹿児島県国分市小。旧県社。 大己貴命・少彦名命・大歳神を祀る。もと神造島(今の小島)に鎮座したが、後に現地に遷座したという。『続日本紀』宝亀9年(778)12月の記事に、大隅国の海中に神があって島を造ったが、その神の名を大穴持神といい、官社に列したとある。噴火活動による造島現象を、大穴持神の神業とみたわけである。「延喜式」にも登載された古社であり、また近世には藩主島津家の篤い崇敬をうけた。例祭9月29日。 神社辞典 |