伊勢命神社を内宮、当社を外宮とし、崇神天皇の御宇、伊勢神宮からの勧請であるとする説がある。 本殿は切妻造妻入、茅葺き。桁行(側面)2間、梁間(正面)3間の身舎(もや)の前面に片流れ・檜皮葺きの庇を付した隠岐造で、棟に千木・鰹木を置く。春日造と異なり、切妻屋根と正面の庇は一体化していない。寛政7年(1795年)の竣工で、国の重要文化財に指定されている。 もとは現在地より5〜6町隔てた郡川の左岸、字宮原にあった。明応年間(1492−1500)水難により流出し、現在地へ遷座という。 |
由緒 主祭神 水若酢命 配神 鈴御前・中言神 神紋 菊 例祭日 5月3日 特殊神事 水若酢神社祭礼風流(県指定無形文化財 隔年毎偶数年斎行) 由緒 御祭神水若酢命は海中より伊後の磯島に上られ、山を越えてこの里に入られ国土開発・北方防備の任に就かれた神と伝えられている。当社は昔火災・水害の難にあい、古文書・社宝等ほとんど失われた為、由緒は明らかではないが、延喜式神名帳に「隠岐国穏地郡水若酢命神社名神大」国内帳には、「正四位上、水若酢明神・隠岐一宮」と記されている古社である。鎮座年代は僅かに残っている古文書には、仁徳天皇又旧記には、崇神天皇の御代とあって古来五穀豊穣、海島守護・航海安全の神として朝野の崇敬篤く、明治4年国幣中社に列せられた神社である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
水若酢神社 国指定重要文化財 水若酢神社本殿 (五箇村郡) この神社本殿は、隠岐地方の特色である「隠岐造り」の代表的建築である。隠岐造りは、本殿が横に長い平面形をもつが、切妻屋根で妻入り、正面に向拝と呼ばれるひさしをつける。また、この隠岐造りはひじょうに装飾性が高く、この本殿もその特徴がよくあらわれている。島後では玉若酢命神社本殿(西郷町)とならび、大規模かつ優れた建築を今に伝えている。現在の本殿は1795年(寛政7年)の再興で、五箇村北方の大工棟梁森寄与八が造営工事を担当した。 本殿は正面3間、側面2間の身舎(本体部分)の前に正面3間の向拝をつけ、背面を除く三方に刎高欄付きの縁をめぐらし、正面中央に階段をつける。身舎の円柱は、床下部分のみ八角形につくり、礎石の上に立つ。柱上には井桁に組んだ敷桁・梁をまわし、さらにその上に軒桁・妻梁を外側に持ち出して井桁に組む手の込んだものである。軒は一段(一軒)で、垂木の間隔が狭い繁垂木である。妻飾は、身舎正面は二重虹梁大瓶束、背面は四重虹梁大瓶束で、虹梁の間に平三斗(最下段は五つ斗)をすえ、装飾性が豊かである。また、屋根は茅葺きである点も特徴のひとつである。 向拝は、両端角柱の上には出三斗を、中央柱の上には平三斗をおき、身舎柱と海老虹梁でつなぐ。軒は二段となった二軒、屋根は栃葺の片流れ形式である。 なお、隔年の5月3日に行われる神事「山曳き」は、2m四方のやぐらを太い縄で引いて歩くめずらしい祭礼で、県指定無形民俗文化財(水若酢神社祭礼風流)となっている。 平成4年(1992年)1月21日指定 平成12年(2000年)3月 島根県教育委員会 隠岐島後教育委員会 社頭掲示板 |
水若酢神社 水若酢神社は、五箇地区の各集落で造営している神社で、平安時代の延喜式神名帳に名神大社として記載されるほか、隠岐国の一宮とされていました。かつての社地は、現在より北の方に位置しており、川の氾濫による流失のため何度か変遷を繰り返してきました。 水若酢神社の例祭であるこの祭りでは、御旅所まで「蓬莱山」とよばれる山車を曳く「山曳き神事」が行われますが、この流失した社殿やご神体、再建のための用材を曳いたことによるものだともいわれています。 山車には、亀の頭が付き、松の木には白い鳥が乗り、紅白の花などで華やかに飾られ、各地区から持ち寄られた綱が結ばれ、木遣り歌の合図で氏子によりにぎやかに御旅所まで曳かれていきます。子どもたちも2、3歳頃から参加し、初めて山を曳くことを「初山曳き」と呼んでいます。 御旅所横には、舞台が設けられ、神楽の「巫女舞」、「一番立」、「獅子舞」、「大楽」が行われます。その横の馬場では、流鏑馬が行われます。 社頭掲示板 |
水若酢神社 主祭神 水若酢命 配神 鈴御前 中言神 神紋 菊 例祭日 5月3日 特殊神事 水若酢神社祭礼風流 (県指定無形文化財 隔年毎偶数年斉行) 由緒 御祭神水若酢命は海中より伊後の磯島に上られ、山を越えてこの里に入られ、国土開発、地方防備の任に就かれた神と伝えられている。当社は昔、火災、水害の難にあい古文書社宝等ほとんど失われた為、由緒は明らかではないが延喜式神名帳に「隠岐国穏地郡水若酢神社名神大」、国内■には「正四位上、水若酢明神、隠岐一宮」と記されている古社である。鎮座年代は、僅かに残っている古文書には応神天皇又旧記には崇神天皇の御代とあって、古来五穀豊穣、■■守護、航海安全の神として朝野の崇敬篤く明治4年国幣中社に列せられた神社である。 国指定重要文化財 水若酢神社本殿 平成4年1月21日 現在の本殿は寛政7年(1795)に建造されたもので、平面の形は神明造りに、屋根は大社造りに、向拝は春日造りに似ている点もあるが「隠岐造り」と呼ばれる隠岐独特の造りで簡素で素朴な美しさを持ち、しかも威厳と風格を備えている。本殿は南向きで屋根は切妻造りの茅葺きで高さ16mあり鬼板についている菊の御神紋は直径33cmもある。 平面形は前面三間、奥行二間、正面は引違太■■平戸で両脇は蔀戸で他は横羽目板張りになっている。内部は外陣と内陣に分けられている。屋根は九寸勾配で厚い所で六尺、薄い所で三尺である。向拝は片流れの栃葺きで面取りの角材を用いている。屋根の葺替えは通常20年毎に行われ、五尺縄で縛った茅約三千束を必要とする。 水若酢神社 社頭掲示板 |
水若酢神社古墳群 水若酢神社には、水若酢神社古墳群と呼ばれる2基の古墳があります。この1号墳には、6世紀中頃〜7世紀頃の土器をはじめ、太刀や鍬などの鉄製品、勾玉などの装飾品が埋葬されており、古墳が造られた時代もこの頃と考えられます。現在露出している横穴式石室は、その長さ11mと隠岐地域では最大のもので、玄室内には遺体を納めたと思われる石棺が2基見つかりました。 本殿の裏側にある2号墳については、本殿によってその封土を削られていますが、円墳とみられる墳丘を残しています。 1号墳の石室の大きさ、造りなどから判断すると、当時のこの地域の有力者との関係が考えられる古墳であり、隠岐地域の古墳の中でも重要なものと考えられます。 社頭掲示板 |
水若酢神社 水若酢神社(国幣中社) 〔通称)明神さん 〔交通〕西郷港上陸バスで四十分、神社前下車徒歩1分 〔鎮座地〕隠岐郡五箇村大字郡字犬町723 〔旧地番)穏地郡五箇村大字郡字犬町723 〔主祭神〕水若酢命 〔配祀神〕鈴御前、中言神 〔神紋〕菊 〔祭日〕例祭5月3日 新嘗祭11月3日 〔其他主なる祭典名及月日)中祭6月16日 除夜祭12月31日 元旦祭1月1日 御座更祭11月6日 御座入祭12月6日 〔本殿〕隠岐造間口三、七間 奥行三、七間 (本殿重要文化財) 〔幣殿〕石畳庭上 〔拝殿〕切妻造間口三、0間 奥行三、0間 〔其他主たる建物〕神饌殿、奏楽殿、随神門、神庫(収蔵庫}、社務所、参集所、雑具納屋(倉庫) 〔境内地〕4509.56坪 〔由緒・沿革〕当神社の御祭神は水若酢命である。当社は昔時兵火、水難の災に罹り旧記、古文書、社宝等殆んど失われたので由緒を詳にしがたいけれど、延喜式には「隠岐国穏地郡水若酢命神社名神大」と記され、国内帳には「正四位上、水若酢明神、隠岐一宮」と見えている名社である。 鎮座年代は僅かに残って居る古文書には仁徳帝の御代とあり、又某家の旧記には崇神天皇の御宇とあって古来五穀豊穣、海島守護の神として朝野の崇敬頗る篤い古社で明治4年国幣中社に列せられた。今の御本殿は寛政7年の造営で建築の様式は大社造の変態と評され隠岐国独特の様式で、俗に隠岐造と言われて居り重要丈化財である。 〔神事・芸能〕水若酢神社祭礼風流(県指定無形文化財) 例大祭は毎年5月3日に行われ、隔年毎(現在は奇数年)に氏子祭として神幸式が行われる。この祭礼は十二部落(村全部落、村外二部落)の氏子の参加のもとに行われ、それぞれの所役を分担するが、一郷の総社格としての水若酢神社のもとに標山の信仰に始まるであろう。蓬来山と称して鶴亀に不断の花木にて飾りたる山車(十二部落氏子と出氏子の2才〜3オ以上10才までの男子が鉢巻、襷、草履ばきにて曳く)を先頭に木遣、大楽、神社楽につれて徐々御旅所に到り神饌を供して祭典を行う。此の間巫子舞、神楽舞、獅子舞、流鏑馬、大楽等が奉納される(此の神幸祭に奉仕奏楽するのが水若酢神社大楽と称し渡御式の進行に合せて五楽を奏し笛は横六穴笛四人にて奏し、大胴は直径1m、二人にて掛声も勇ましく笛の音に合せて打ち非常に面白い楽とされている〕尚此の祭礼は隠岐島後三大祭の一として貴重なる風流である。 〔附記〕例大祭の執行=享保年間(1716−35)の文書によると陰暦9月9日の節句に行われたとあり、その後いつの頃からか3月3日上巳の節句に行うこととなった。明治4年国幣中社に御列格後新暦5月3日となった。 神幸式=先頭は山曳きといって鶴亀、不断の花木で飾った山車(蓬来山ともいう)を氏子及び出氏子の2〜3才-10才の男児が、はちまきたすきがけわらじをはいて参加する。 初山=生れて初めて山曳きをすること。氏子のうち他郷に出た者、出氏子(嫁婿になり他郷に出たもの)の子供もこの時はわざわざ里に帰り曳かせ、初山といって親戚知人と酒肴をくみかわして祝う。 山曳きの縁起=当社が旧社地(宮原〉に鎮座の時、明応年間(1492−1500)(推定)水難により流出し、五箇村大字南方字大田通称輿場附近にて発見され、南方北方両部落民が旗をたて太鼓を打ち笛を吹きならし、旧社地まで曳き上げた故事にならってこの神事が行われたと伝へられている。 木やり=2人の木やり人(家伝)が木やりのうたをうたって行列の指揮をとる。この木やり歌は極秘とされ、御旅所に至るまで六番、本殿に帰るまで六番をうたう。きやり入は7日前よりきり火を行い、当日は赤崎の海水で潔斎、岩上で木やり二番をうたひ、南方区長宅で三々九度の盃をかわし、うた四番から六番をうたい、奉仕の無事を祈って部落民と一しょに列を正して当神社に来る。山曳きに当っては鳥帽子、角衣、扇子で曳綱の列のほぼ中央におる。 綱打、綱番=十二部落の各部落毎に蓬来山の曳き綱を清浄な稲わらで打ちない清め各々2人の綱番が肩にして持参する。綱番は神幸中のつなの処理にあたる。 山番=花番ともいう。小路、都万路部落から各1名出て、烏帽子、白丁で山曳のあいだ山車の上にあがる。 山つき=山どめともいい4名で、フリ(椿材のテコ)をもって山車の進み方を正しく調整する。 大楽=(明神ばやし)山曳きの行進曲とも思われ、大楽(おゝがく)といって郡部落の氏子より鼓打ち2人、笛ふき4人で奉仕する。大どうは直径1m笛は六穴横笛で次の五曲を奏す。 由緒書 |