抓津比売命は現社地の東北北約2Kmの挾山涌水に降臨した、この地を幣池といい、いまも抓津比売を祭神とする幣池神社と称する小祠がある。
大屋津媛命は現社地の西南西約2Kmの、海に接した断崖の下、大屋のワンドといわれている地に降臨した。 この二神を併せ祀ったところへ、幣池の南方約1.5Km下流にある天健淵に降臨した正八幡宮を合祀したので、ここを八幡原というようになつた。 |
天健金草神社 天健金草神社由緒略記 一、 社格、社號、鎮座地 村社 天健金草神社 穩地郡都万村大字都万靈亀山鎮座 二、 祭神、 大屋津媛命 抓津媛命 應神天皇 息長帯姫命 玉依姫命 塩土老翁 建御名方命 三、 由緒沿革、 當社は延喜式神名帳に隠岐國郡三座と列記せられたる中の天健金草神社として人皇46代孝謙天皇天平勝寶7年八幡原に神社を建立す今より1200有余年是則ち本社の創立なり祭神大屋津媛、抓津媛二神は素盞鳴尊乃御女にして御兄五十猛命と共に八十木種を植ゐしめて此國土を開拓し給ひて終に大屋津媛命は大屋仙洞に座し抓津媛命は狹山涌泉に座すと、依りて地號を都萬院と稱す、旦狹山涌泉わ神仙院霊沼と号して毎年幣帛を奉る流水漲漾りて大屋の仙洞に通ふと神代より今日まで及んで、未だ不乾国土旱すれば必ず神仙院に祈る有霊験土俗呼んで幣之御池と云う。 四、 神階、 人皇56代清和天皇貞観13年閏8月29日授隠岐國從五位上天健金草神從四位下 人皇58代光孝天皇仁和元年授隠岐國從四位下天健金草神從四位上 光嚴院御宇正慶2年癸酉後醍醐天皇御座當嶋時依還幸丹祈特當社、祷于當社而女神二座に贈正一位 五、 祭祀、祭日、 古来より當社恒例の最も重き祭祀は御幸祭、百手的祭、放生会の三大祭にして御幸祭は往古の寛弘3年3月に始りしも一時中断せしを明治維新の際、再興し本村大字蛸木津戸都万那久油井の五大字にて舉行せしも其後分離して現今大字都万崇敬者にて執行せり放生会は明治初年より秋大祭と改稱し今尚ほ續行せり 祈年祭 3月1日 例祭 4月15日 秋祭 9月15日 新嘗祭 12月1日 大正13年4月15日 社掌 謹誌 社頭掲示板 |
天健金草神社 天健金草神社は、延長5年(927)成立の延喜式神名帳に記載されている古い神社です。強い神威を持つとされる神社で、神功皇后が三韓出兵時、暴風を避けた際に参拝した伝説があるほか、新羅船を大風で退かせたという託宣(平安時代の歴史書『扶桑略記』に記載)により朝廷から数度にわたって神階が上げられました。また、元弘の乱で隠岐へ配流になっていた後醍醐天皇は、この神社に脱出祈願を行い、それがかなった後に正一位を贈っています。 本殿は、元治元年(1863)の建築で、形式は流造です。平面プランは、玉若酢神社や水若酢神社とほぼ同じで、屋根の形式の相違はありますが、隠岐造三間社の成立と関係があると考えられています。主祭神である抓津媛命、大屋津媛命の神名は「都万」や「大屋」など地名となっていて、古くは都万、那久、油井、津戸、蛸木の5か村で造営する大きな神社でした。毎年の例祭は、以前は大規模なもので、玉若酢神社御霊会風流のように神馬八頭を神社境内へ馳せ入れたり、流鏑馬なども行われていたようです。 社頭掲示板 |