惣社の制ができて似来、この社が国府の惣社とされ、代々国造家が祭るものとされてきたが、その間にも式内玉若酢命神社であることは忘れられていなかった。 宮司・億岐家は隠岐国造(おきのくにみやつこ)の末裔と言われており、隠岐国駅鈴と隠岐国倉印(いずれも重要文化財)が伝世されている。 |
由緒 玉若酢命を主祭神とし、大国主命、須佐之男命ほか二柱の姫神を配祀、勧請年代は詳らかでないが、式内社に列せられた古社である。 水若酢命と共に本島を開拓した隠岐の二祖神であると伝えられている。また神社名を総社と俗に称している。かつての隠岐国府の所在地で、明治初年頃まではこの地を総社村といった。これは王朝時代、国司が当国の総社として祭祀を執行した由緒によるものである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
玉若酢命神社 【玉若酢命神社】 隠岐の総社として創建された神社で、島の開拓にかかわる神と考えられている玉若酢命を主祭神としています。現在の本殿は、寛政5年(1793)の建築で、様式は隠岐造です。三間社の隠岐造では、水若酢神社、伊勢命神社とともに最大規模です。社伝によると景行天皇が皇子を各国に分置した際に隠岐に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命だと伝えています。宮司を務める億岐家は「隠岐国造(おきのくにみやつこ)」(現在でいう市長)の末裔だといわれており、億岐家に保管されている2つの駅鈴と隠伎倉印は国の重要文化財に指定されています。毎年6月5日に行われる「御霊会風流(これえふりゅう)」では馬入れ神事や流鏑馬などの行事がおこなわれ馬付き達の勇壮な姿を見ることができます。 【八百杉】 樹齢1000年以上といわれている杉の巨木で、人魚の肉を食べて八百年生きたという八百比丘尼(やおびくに)が若狭から来て植えたという伝説があります。八百比丘尼の伝説から名前をとって八百杉と呼ばれ親しまれています。杉の名前からも当時の隠岐と若狭の国との交流をうかがい知ることができます。また、八百杉の根元に住み着いた大蛇が昼寝をしている間に八百杉の成長により外に出られなくなったため、自らの不甲斐なさから夜な夜な鳴いているという伝説も残っています。 社頭掲示板 |
史跡玉若酢命神社古墳群 昭和47年7月28日 島根県指定 玉若酢命神社の北西側の丘陵には大小15基から成る古墳群があります。古墳の形は、14基(そのうち1基は消滅)は円墳ですか、丘陵頂部の一基は前方後円墳です。円墳は直径10m前後高さ1m程度です。内部構造は未発掘で詳細は分かりませんが、横穴石室と考えられています。 前方後円墳は、保存状態が大変良くて、墳形が分かりやすいものです。大きさは全長32m、後円部は直径19m高さ2.6m、前方部は幅15m高さ2.3mで、やや前方部が開いた、比較的古い形の前方後円墳です。後円部の頂上には、石室の蓋石と思われる板石が露出しています。この前方後円墳の築かれた年代は、墳形、消滅した三号墳の副葬品、古墳群全体の状態などから、六世紀後半頃と考えられます。 隠岐島内では、前方後円墳を含むこれだけの群集墳は例がなく.非堂に貴重な古墳群です。 平成4年3月 島根県教育委員会 隠岐島後教育委員会 社頭掲示板 |
文化財案内 重要文化財 玉若酢命神社三棟 〔本殿・随神門・社家億岐家住宅・土地〕 附(本殿棟札・普請文書・随神門棟札・旧拝殿一棟・家相図・ 社家億岐家住宅福神社一基・宅地) (本殿) 天明7年(1787)棟梁鈴木儀八以下13人の隠岐の工匠を中心に本建設を開始し、翌8年に概ね完成した。2年の中断後寛政3年(1791)に工事を再開し、寛政5年(1793)に上棟したと普請文書が伝えている。隠岐造りとも呼ばれている。 (随神門) 嘉永5年(1852)の建設である。 (億岐家住宅) 享和元年(1801)の建設であり、社家住宅の特徴ある形式を伝えている。 一 重要文化財隠岐国駅鈴(附光格天皇御下賜唐櫃) 一 重要文化財銅印「隠伎倉印」 一 国指定天然記念物八百杉 根もとの周囲約20m、胸高周囲約9.9m、高さ約30m むかし数百年生きながらえたと伝えられる八百比丘尼が若狭より隠岐に渡り、当社に参拝した記念に植えた杉なので「八百杉」と云う。また、この杉の根元に大蛇が生息していたが、この蛇は寝たままついに根に包まれてしまい今でも周囲が静かなときには、大蛇のいびきの音が聞こえて来ると。 いろふりて雲をぞさそう仙人の 植えて幾世か杉の一本 (宝永2年日置風水記) 一 県指定史跡 玉若酢命神社古墳群 一 県指定無形 玉若酢命神社御霊会風流 民俗文化財(6月5日祭礼 馬入れ神事) 平成6年3月 文化庁 島根県教育委員会 隠岐島後教育委員会 社頭掲示板 |
玉若酢命神社 神社の由緒 王若酢命を主祭神とし大國主命、須佐之男命外二柱の姫神を配祀、勧請年代は詳でないが式内社に列せられだ古社である、氷若酢命と共に本島を開柘した隠岐の二祖神であると伝えられている。 又神社名を総社と俗に称している。かっての隠岐國府の所在地で、明治初年項まではこの地を総社村といった。これは王朝時代國司が当國の総社として祭紀を執行した由緒に由るものである。 本殿(隠岐造)県指定文化財 外形の特徴。屋根は大社造に似て妻入だが平面形は神明造に似て横長の短形である。向拝は前面いっぱいに片流についているが、その両端は春日造と違って大屋根と離れている。尚棟に雀躍と称する一本木をおき両端は鬼板より出て反っていて、隠岐にのみに存する独特の神社建築である。寛政5年建立(1793年) 例祭神事御霊会建指定無形文化財 6月5日例祭には八頭の神馬が出役する。隠岐國総社である為、地区ごとの産土神を神馬に奉遷して馳せ参ずると云う信仰によるものである。安永8年(1779年)の神社記に、「往昔は48頭の神馬が馳参せるも今日八地区の八頭に止まる」とある。察するに当初は全島あげて祭礼に参加し、盛況を極めたものと思われる。 この地方に於ける大氏神の大祭に小氏神が馳せ参ずると云う神事は他には見れなく、風流にして貴重な存在である・依って県の無形文化財に指定する(昭和40年) 社頭掲示板 |
駅鈴 隠岐幸生に詠みて贈る 西依成斉 雲の上にのぼる むやまのすずの箱 ふたたび開く世々の古道 天明6年(1787)国造幸生、駅鈴を帯同して上京し、光格天皇の御叡覧に供し奉つた。 天明8年都に大火があり御所も類焼炎上したため寛政2年11月(1790)新御所が造営された。 仮御所より新御所に御還幸になる御儀にあたり、古式にならい鈴櫃の中に納めるため駅鈴を帯同せよとの勅命を畏み幸生再度上京奉呈した。 王代一覧後篇に、「隠岐国造駅鈴を奉る故事に行幸には駅鈴を具せらるるに因つて徴したり云々とあるは即ちこれである」と記されてある御儀をさす。 朱塗の鈴櫃を新しく調整され御執行の後、黄金一枚を添え記念として鈴櫃を御下賜いただいた。 冒頭の和歌はこの時恩師西依成斉先生より幸生に贈られたものである。 社頭掲示板 |
隠岐国造 隠岐国は、主な島大小四つから成り、狭い土地ながらも神社が多く、『延喜式』の神名帳には大社四、小社十一が登録されている。大社はともに名神大社で、知夫郡に由良比女神社、海部郡に宇受加命神社、隠地郡に水若酢命神社・伊勢命神社とあり、延喜以前にいずれも官社に列した。 水若酢神社は水若酢命を祭り、のち中言神・鈴御前神を配祀した。水若酢は水の湧き出る意の水神と考えられる。中世に隠岐国の一宮となった。明治になって国弊中社、旧暦一月五日に和布刈神事が行われる。 小社十一のうちに玉若酢神社がある。玉若酢命を祭り、周吉郡の条にあり、隠岐国造が奉斎した神社である。ところが国造の本拠は、実は初め隠岐国府の式内社和気能須命神社であったらしく、それが隠岐国の総社とされていたのを、いつしか玉若酢神社が総社と呼ばれるようになった。明治以後は県社となった。境内の八百杉は県か随一の巨木で、天然記念物に指定されている。 隠岐国造は、大国主命の後裔を称し、十拶彦のとき隠岐国造となった。意岐、億岐、億伎とも書かれる。系図を見ると、江戸時代の文化十年に京で没した幸生から明治の最初の有尚までの四代が「隠岐臣」を称しているが、実際は国造家の本姓は詳らかではない。が、おそらく国造を姓としたものと考えられている。それを近世に至って、古代氏姓にならって、臣姓を名乗ったものだるようだ。 また、初代国造となった十拶彦以降の歴代も、明確でない部分が多いが、古代から隠岐国にあって、 玉若酢神社の神職を務めてきた。有名な隠伎倉印と駅鈴は、祠官億伎氏の家宝である。 社家の姓氏 |