鎮座地を「郡」といい、この島の、又この郡の中心地であることから一宮大明神が、式内天佐志比古命神社であると言われている。 祭神は、用明天皇の御代、新府利の沖の中島(神島)に出現し、中島に59年坐した後、孝徳天皇白雉4年8月、新府利東浜詰岩石に上陸したという。 初めは、新府利(仁夫里)の里に鎮座していたが万治2年10月、現在地に遷座と云う。 |
天佐志比古命神社 隠岐島前指定文化財 天佐志比古命神社 (一宮神社)の芝居小屋 江戸時代の明和年間、知夫湾に鯨の漂着があり、その後折り悪く火災や疫病の流行が続いた。このように凶事が続くのは鯨が神慮を汚した為であるとされ、神慮を慰める方法として少年の手踊りを奉納しそれが毎年恒例の神事の中に組み込まれたのが始まりである。 寛政年間に入り演技的な進歩が見られ、文政に入ると京都の流入僧速了法師の指導により歌舞伎の要素が入り、明治時代になると本格的に村民による歌舞伎奉納が行われ現在に続いている。 野外観覧席の廻り舞台を持つ芝居小屋は本村と淡路島の文楽の二ヶ所のみが存在する貴重なもので、近年建て替えられはしたが旧態を残しており、隠岐島前の文化財に指定されている。 芝居奉納は天佐志比古命神社例大祭に併せて隔年7月24日・25日の両日夜行われる。 知夫村 社頭掲示板 |
天佐志比古命神社 鎮座地 島根県隠岐郡知夫里村 御祭神 天佐志比古命(あまさちひこのみこと) 例祭日 旧暦6月15日 由 緒 「延喜式」の式内社。 知夫里の先住者によってまつられた神とされる。続日本後記に「承和十五年二月巳酉奉授隠岐国天佐自比古神従五位下」とある。国内神名帖には「従一位天佐自彦大明神」とある。 現在も知夫村の総氏神として崇敬されている。 芸 能 例祭日前日夕刻、恒例に地芝居が奉納される。伝承によると明和年間(1764より)に始められ、寛政年間より盛んになり、文政年間にいたって同村多沢に良作という者があって振付し芝居踊を教えたという。この頃に建物が整備されたと思われる。 芝居小屋には4人で回す回り舞台も備わっている。また、観覧席も建物の正面野外に五段の石段状のものが設けられ特色あるもの。歌舞伎芝居の伝播を考える上で貴重である。 (島根県神社庁編 『神国島根』より抜粋) 隠岐神社HP |
後醍醐天皇御腰掛の石 元弘2年(1332年)3月.後醍醐天皇は鎌倉幕府によつて隠岐へ配流された、その第一歩は、本村の仁夫里の浜であつた。 その折、天皇は天佐志比古命神社(一宮ともいう)にも立ち寄られ、この石に、腰を掛けてお休みになったと言われている。 このため村人たちは、この石を御腰掛の石と呼んで敬い、毎年9月の丑の日には新穀を供える中牛祭というお祭りをしていた。 知夫村 社頭掲示板 |