由良比女神社
ゆらひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】由良比女神社(名神大) 隠岐国 知夫郡鎮座

   【現社名】由良比女神社
   【住所】島根県隠岐郡西ノ島町浦郷922
       北緯36度5分30秒、東経132度59分17秒
   【祭神】由良比女命
       祭神を海童神,須世理比賣命などとする説がある。

   【例祭】7月28日 例祭
   【社格】旧郷社 隠岐国一宮
   【由緒】承和9年(842)9月預官社
       応永5年(1398)造立
       永享10年(1438)造立
       寛永12年(1635)建立
       寛文7年(1667)「里人も知る者なし」小祠
       貞享元年(1684)建立
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿春日造
       幣殿・拝殿・随神門・神器庫・社務所

   【境内社】伊勢之宮・恵比須社・豊受宮・出雲大社

『延喜式』神名帳では「由良比女神社 名神大 元名和多浜神」と記載されている。
知夫村に残る伝説として、古くは由良比女神社は知夫里の「鳥賊浜」という処にあった。


由緒

祭神 由良比女命
例祭 7月28日
特殊祭 神帰祭(かみがえりさい)11月29日
由緒
当社は仁明天皇承和9年(842年)官社に預かり承和15年、清和天皇貞観8年、陽成天皇元慶元年に朝廷より丁重な祈祷ありと六国史に見え、醍醐天皇の延喜式(905)に名神大・元名和多須神とあり、袖中抄、土佐日記に「ちぶり神」としてあります。海上安全守護の神として遣唐使や使節を遣わす時、新羅の賊兵を防ぐなど大陸交通の要点として隠岐の国の諸神とともに朝廷に尊崇せられ、一般世人にも信仰されたと思われます。
平安朝末期に隠岐国の一宮と定められましたが、以後徳川時代の中頃まで衰微していました。寛文7年(1667)松江藩士斎藤豊宣の隠州視聴合記に「由良明神と号する小社あり極めて小さく古りはてて亡きが如し」とあり、元禄9年(1696)一国一宮に詣でし橘三喜、都々美一光もその衰微を慨き神光あらわれることを願い、都々美一光は おきつ風吹きつたへなむ由良姫の御籬によする浪のしらゆふ と詠って去りました。慶長12年、元禄5年に本社建立をしていることは里人もかなり努力したと思われますが、衰微の原因として武士の時代になると遠流の地隠岐の国は、覇権を奪るには不要な土地であり、造船、航海術の進歩は九州拠点となり、隠岐の神々の加護を必要としませんでした。また、田畑の少ない浦郷では、天災による影響も大きかったことが神社衰微の原因と推測されます。
安永2年(1773)島前一三ヶ村の庄屋が集まり、御旅祭の再興を相談していることは島前に於ける当社の位置を示しています。
明治5年郷社に列し、22年精巧な本殿を改築し、昭和6年拝殿改築、境内地を整備して神域を整え、昭和50年島根県特別神社神社に指定されました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



由良比女神社

由緒
祭神 由良比女命
例祭 7月28日
当社は仁明天皇承和9年(1100年前)官社に預り延喜式神明帳には明神大として神申抄には「わたす宮」土佐日記には「ちぶりの神」として見えたり。
海上守護の神として古来より上下の崇敬篤く外国の使節を遣する際或は外患を防ぐ時等に鄭重なる祈祷ありと続日本後紀三代実録に記るされたり。
平安朝末期には当国一の宮と定められその造營は国守により行れたり
安永2年(180年前)各村の庄屋集りて大祭の儀を復興し島前一統の祭としてその制を今尚伝えたり。
隔年に行れる御旅の祭には遠く雲石伯耆但馬より新造の漁舩を曳航し競って神船に列せんとしたり近郷の漁船供奉して漕ぎ競えをなせり。
社前の由良の浜には毎年10月より翌年2月にかけて「いか」の群集するあり、その寄来る時は瀧の響の如くなり。小屋掛けして待ちこれを掬い取る。多き時は一夜に数千連(一連=20パイ)も押寄せり。
11月29日の神帰祭には少しと雖も寄らざることなし、これ遠き古より今に至るまで変わることなき、不思議の一なり。
昭和29年6月28日 宮司

社頭掲示板



由良比女神社

由良の浜「いか」寄せのこと
●伝説
一、祭神当地にご渡海の際に海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた。その非礼をわびて「いか」が寄るようになったと伝えられています。
二、神武天皇の御代に祭神が「いか」を手に持つて現れたとも伝えられています。
三、当社はもと知夫里島の「いか浜」にあつたが浦郷の由良の浜に神社が遷されてから「いか」が「いか浜」には寄らなくなつたとも伝えられています。
四、11月29日の夜には祭神が出雲の国から帰つてこられるので、神帰祭が奉仕されます。この夜には多少にかかわらず「いか」が寄ると伝えられ戦後も随分このことがありました。
●実績
一、昭和3年2月当地の住民2名で数万匹の「いか」を拾い浜は足の踏み場もないほどで、一人は水田、一人は畑を各々一反歩買つたとのこと。
二、昭和20年秋は、終戦直後で日本中食料難、金より物の時代、当地の警察官が小舟いつばいの「いか」を拾い売却し、これを事業資金にして転職したとのこと。
三、昭和43年11月30日夜、当地の浦郷警察署の署員が歳末警戒の帰途「いか」の寄るのを発見し、署長、非番職員に土地の者も加わつて一万六千匹拾いました。
●昔は
「いか」拾い小屋が連立していました。当社は「するめ大明神」「いか神様」として崇敬を集めています。土地の人達は殆ど「いか」拾いの経験があります。
数百匹・数干匹も珍しいことではなく、拾つた人の個人所有で上納などのことはありません。
●なぜ最近「いか」が寄らないのか。
「いか」が寄るのは11月から2月まで。
[日本海中央、大和堆の多数のいか釣り船、海況の変化、埋立による由良湾の狭少、養殖いけす、防波堤などの漁業施設、昼夜を分かたぬ漁船の航行などが考えられます。
しかし、浦郷湾内にある2統の大敷網には12〜1月は「いか」が沢山とれています。
近年、秋には紅イカ(主地ではドウタレイカ体長1m)が沢山とれています。
平成4年4月 由良比女神社宮司

社頭掲示板



由良比女神社本殿

隠岐島前の文化財 有形文化財(建造物)
  由良比女神社本殿
所有者 由良比女神社
特徴、由緒等
二間社春日造変態、向拝唐破風  明治22年建造
大工棟梁角谷六太郎                
 建築様式については、かつて「大社造変態」と称していたが、「春日造」に近い処から現在では「春日造変態」ということになっている。
 しかし、このような様式のものを出雲では「明神造」と称している。県内の建築様式一覧(神国島根)にも「明神造」が数社あるが恐らくこれらは同系のものと思われる。いわゆる和様建築は「三斗組」の集合体であるが、「権現造」等の成立する江戸期には多くの彫刻を付した華麗なものとなった。
 この神社は延書式では「明神大社」に列せられた名社であるが、近世には一時衰微し社殿も小規模なものであったが、明治に至り、氏子の総意が結集されてこのような立派な社殿が建造されたのである。
 建築年代は明治時代で新しいものであるが、島前地区には焼火神社を除き江戸期における神社建築は皆無であるので、代表的なもの三社を指定した。
(他に 美田・美田八幡宮本殿 海士町・宇受賀命神社本殿)
  昭和57年 隠岐島前教育委員会指定

社頭掲示板



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