重蔵神社
じゅうぞうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鳳至比古神社 能登国 鳳至郡鎮座
   【延喜式神名帳】辺津比盗_社 能登国 鳳至郡鎮座

   【現社名】重蔵神社
   【住所】石川県輪島市河井町4-96-甲
       北緯37度23分41秒、東経136度54分23秒
   【祭神】天之冬衣命 大国主命
       (配祀)正哉吾勝勝速日天忍穗耳命 天津日子根命 天之菩卑能命 活津日子根命
       熊野久須毘命 多紀理姫命 市杵嶋姫命 田心姫命 表筒男命 中筒男命 底筒男命
       建御名方神 豐受大神 事代主命 大山咋神

   【例祭】 8月23日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇の御宇大彦命創祀
       垂仁天皇田地を寄進
       天平勝宝8年(756)5月僧泰澄十藏権現又重藏宮と唱す
       養和元年(1181)2月地頭長谷部信連武具及柱松明木を奉献
       永仁4年(1296)10月地頭長谷部有連本殿建立
       応永2年(1395)9月本殿修理遷座
       応仁3年(1469)正月重倉大明神と称す
       天正10年(1582)前田利家入国武具及柱松明木奉献
       文政8年(1825)10月以降「重藏宮」のち「重藏神社」と称
       明治5年9月郷社
       明治39年12月29日神饌幣帛料供進神社指定
       明治43年4月社殿類焼
       大正7年12月26六日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「重蔵権現・十蔵大権現・重蔵宮」と称していた
   【公式HP】 重蔵神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・幣殿・神輿庫・祭器庫・曳山庫・社務所齋館
       氏子会館・氏子集会所

   【境内社】琴比羅社・秋葉社・白山社・菅原社・稲荷社・子安社

江戸時代、藩政期の天和3年(1683)から文政9年(1826)まで重蔵神社と住吉神社によって、式内鳳至比古神社をめぐって流血の神社公事騒動が150年にも亘り争われて来ている。
「重藏島は輪島より十八里沖にあり。今は舳倉島と書り。此島は龍神の領分にて、此島神と輪島の重藏宮の神とは夫婦神とて、年に一度充彼島より輪島へ来り給ふ。其時波高くなり舞樂を奏する音す」との伝承がある。


由緒

重蔵神社由緒略記
由緒大要
社伝によれば、遠く崇神天皇の御代の鎮座とされ、「延喜式」の神名帳に載せられる鳳至比古神社、あるいは辺津比刀iへつひめ)神社にもあてられてきたのである。
もと、重蔵権現・十蔵大権現・重蔵宮とも称せられ、神仏習合した堂塔伽藍が建ちならび、多くの社人(現在、神人と称し五十余戸あり)社僧・衆徒の奉仕するところであった。
したがって古来、領主・藩主をはじめ衆庶の尊崇ただならず、中世には地頭の長谷部氏をはじめ、温井氏(畠山氏家臣)等が社殿を造営し、とくに本殿は明治39年特別保護建造物に指定せられたほどであった。
三間社流造、屋根柿葺で南面し、桁行十六尺二寸五分、梁間十四尺五寸、軒高一尺五寸四分、棟高二十二尺七寸七分という偉容を伝えていたが明治43年炎上、その後、旧にもとづいて再建されたのが現在の本殿ならびに拝殿である。
昭和29年輪島市々制実施を記念し、社務所(重蔵会舘)が建設されたなお社蔵にかかる木造菩薩面一面は明治33年国宝となり、昭和25年重要文化財に指定せられている。
次に当神社大事記により大要を記すと、天平勝宝8年5月両部習合となり、十蔵権現と称す(十輪地蔵為本地仏)。
延喜6年醍醐帝神鏡を御奉納。
養和元年2月長谷部信連祈願所と定め銅瓶武具及柱松明木を奉献する例を定める。
永仁4年10月地頭長谷部有連本殿再建、応永2年9月本殿修理遷座式あり。
応永11年7月住僧等大般若経六百巻書写して献納する。
応仁3年正月大明神号を称することを許され、重倉大明神と称する。
文明8年6月地頭温井備中守俊宗、同神保式部尉光保講堂建立。
同13年7月鳳至郡山田郷に当社を勧請する(今倉神社)。
大永4年5月温井備中守孝宗拝殿を建立する。
亨禄4年6月神輿再興。
天正8年6月前田利家入国、同10年武具及柱松明木奉献、(爾後明治維新に至るまで、前田家の恒例として松明木を献ず)宝永2年6月神社四囲石垣三十六箇村より寄進築造、同7年6月藩公より白銀二枚賜う。
天和3年及び天明2年の両度、社号争論があり、文政8年10月に至って止む。
爾来重蔵宮と称せられたが後に重蔵神社と称する。
明治5年9月郷社に列し、同33年4月菩薩国宝に指定、修理保存金を下附せられた。
同36年10月基本財産田七町七畝歩余造成。
同39年4月(永仁4年建造)国宝建造物に指定、同年12月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
同43年4月16日社殿類焼。
同年5月本県下より壱万円、輪島町より五千円再建費の寄進あり。同44年11月本殿竣成。
大正元年11月拝殿竣成。
大正5年10月宝蔵、摂末社等再建完成。
同7年5月境内拡張。
同年12月県社に昇格す。
同9年8月神輿再興。
同10年6月権与二千年祭を執行す。
同昇格祭並二千年祭に県知事並前田侯爵・長男爵より祭祀料奉献して代参参向。
同13年11月宮内省へ新嘗祭供御米を献ず。
昭和3年8月御大礼記念として境内外廓玉垣並に有職塀を建設す。
昭和31年社務所(重蔵会舘)建設。
同32年更衣所、同42年控所を増築す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



重蔵神社

逸品解説
-本殿内陣の扉-
永仁4年(1296年)重蔵神社本殿が建造され、100年後の応永4年(1397年)には本殿内陣の扉に朱塗りが施せられました。
しかし、海から吹き上げる潮風に破損が甚だしく明和5年(1768年)には塗師松本屋弥平次によって再度塗り替えが施されました。文献によりますと、江戸時代中頃には輪島にかなりの塗師の存在が認められ、地方特産化してきたことが知られます。
本殿は明治43年の大火のとき類焼してしまいましたが、しかしどういうわけか不思議にもこの扉だけが輪島湾海中に漂っているのを氏子が発見し、拾い上げ、翌44年11月に再建された本殿に使用され今日に至っています。
鎮座地の輪島は、日本海に突出する能登半島の北岸、外浦のほぼ中央に位置し、奥能登の中心として古くから栄えた。また漆器の町としても知られている。
重蔵神社はその輪島の東部、海近き神地に鎮座し、河井町2500戸あまりの産砂(うぶすな)神と仰がれるばかりでなく、鳳至一郡の総社として重きをなしている。社伝によれば、遠く崇神天皇の御代の鎮座とされ、「延喜式」の神名帳に載せられる鳳至比古神社、あるいは辺津比盗_社にあてられてきた。また重蔵権現、十蔵大権現、重蔵宮とも称され、神仏習合した堂塔伽藍が立ち並び、多くの社人社僧衆徒の奉仕するところであった。
明治39年に特別保護国宝建造物に指定された本殿は明治43年に炎上、その後、旧に基づいて再建されたのが現在の本殿並びに拝殿である。

http://www.jeims.co.jp/waichi/jyuzou.html



重蔵神社

三十六箇村より寄進築造、同7年6月藩公より白銀2枚賜う。天和3年及び天明2年の両度、社号争論があり、文政8年10月に至って止む。爾来重蔵宮と称せられたが後に重蔵神社と称する。明治5年9月郷社に列し、同33年4月菩薩国宝に指定、修理保存金を下附せられた。
同36年10月基本財産田7町7畝歩余造成。同39年4月(永仁4年建造)国宝建造物に指定、同年12月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。同43年4月16日社殿類焼。同年5月本県下より壱万円、輪島町より5千円再建費の寄進あり。同44年11月本殿竣成。大正元年11月拝殿竣成。
大正5年10月宝蔵、摂末社等再建完成。同7年5月境内拡張。同年12月県社に昇格す。同9年8月神輿再興。同10年6月権与二千年祭を執行す。同昇格祭並二千年祭に県知事並前田侯爵・長男爵より祭祀料奉献して代参参向。同13年11月宮内省へ新嘗祭供御米を献ず。昭和3年8月御大礼記念として境内外廓玉垣並に有職塀を建設す。昭和31年社務所(重蔵会舘)建設。
同32年更衣所、同42年控所を増築す。

石川県神社庁



重蔵神社

重蔵神社は奥能登の中心地・輪島市の市街地のほぼ中央、日本海に面した河井町に鎮座しています。
河井町約1,800戸の産土神として仰がれるばかりでなく、平安時代中期に編纂された「延喜式」の神名帳にある鳳至比古(ふげしひこ)神社、あるいは辺津比刀iへつひめ)神社にあてられ、鳳至一郡の総社として重きをなしています。

公式HP



重蔵神社

當社は崇神天皇の御宇、大彦命の下向ありて神託により創建され、神地神戸を寄進せられたるによるといふ、垂仁天皇の御宇にも田地の寄進あり、屡々神位御論旨などを奉戴し、延喜式内鳳至比古神社と称せり、社領田七町八段、文明年中に至るまで五千四百九十八束苅あり、これを以て社殿を修理來りしが、其後廃絶す、これより先、天平勝宝8年5月8日僧泰澄當社に來りて十二坊を建立して佛法を習合し、重藏大権現又は重藏宮と唱へり、天正年中兵災により寺院廃絶せるを以て鳳至比古神社の社號を復旧するに至りしかば、天和3年住吉神社氏子との間に社號論争を生じたるを以て鳳至比古神社の社號が何れに属するかを調査中は両社共にこれを唱ふることを禁ぜられ、爾來重藏神社と称せり、
養和元年2月地頭長谷部信連、當社を祈願所と定め鋼瓶・武具などを献納す、永仁4年10月長谷部有蓮、本殿を再建、応永2年9月本殿修理遷座祭を行なふ、応永11年住僧大般若経六百巻を書写して奉納、大永4年5月地頭温井備中守孝宗、拝殿を再建、享禄4年6月神輿再興、天正8年前田利家入國、同10年長家の後を継ぎ、例祭には柱松明木を献ずるなど廃藩に至るまで維績す。
明治5年9月郷社に列せられ、同10年地租改正の際、社地三百歩を上地となす、同39年4月本殿(永仁4年建立)國宝建造物の指定を受く、同39年12月神饌幣帛料供進神社に指定せられ、同41年10月無格社諏訪神社、住吉神社、保食神社を合併合祀、同43年4月輪島の大火により就殿類焼す、同44年11月本殿再建、大正元年11月拝殿を再建せり、同7年12月縣社に列せらる。

神社明細帳



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