住吉神社
すみよしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鳳至比古神社 能登国 鳳至郡鎮座

   【現社名】住吉神社
   【住所】石川県輪島市鳳至町鳳至丁1
       北緯37度23分53秒、東経136度53分51秒
   【祭神】(主神)底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后 (配祀)大己貴命 鳳至比古命
       (合祀)大国玉命 稻荷大神 惠毘須大神 牛頭天王

   【例祭】8月24-25日 夏季大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁徳天皇12年紀井国牟婁県より勧請
       崇神天皇の御宇創祀であるともいう
       宝亀元年(770)班幣に預かる
       仁寿元年(851)正月正六位上
       永徳元年(1381)2月従三位
       天正十年(1582)前田利家参拝
       天保年間(1830−44)有栖川宮家奉幣
       元文元年(1736)4月5日火災
       天明5年(1785)正月30日火災
       明治5年9月郷社
       明治39年12月29日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は大屋庄今の大屋村字釜谷字高塚山に鎭座
        中古同字御璽地山四塚に遷座
        近古水難兵乱の爲現在の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「住吉大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・社務所・倉庫

   【境内社】伊勢社・金比羅社・市姫社

江戸時代、藩政期の天和3年(1683)から文政9年(1826)まで重蔵神社と住吉神社によって、式内鳳至比古神社をめぐって流血の神社公事騒動が150年にも亘り争われて来ている。


由緒

住吉神社略記
本社は延喜式内鳳至比古神社と伝へられ、人皇16代仁徳天皇12年住吉大神を能登に始めて奉斎し、海上鎮護、万民守護の大神と尊崇せられ、一国の大宮として古来鳳至比古神社住吉大明神として歴代皇室の尊崇あつく、武門武将の崇敬又深く、社殿の造替、金品の寄進屡々なり、又前田利家天正10年能登巡国の際、本社に参拝し社殿修復料五十俵の地を寄せ、神主浅井則信に田地を与えたるを始めて前田家累代篤く本社を崇敬された。
又本社は古来大宮と俗称せられ、今に例祭を大宮祭と称し、其の祭礼市を大宮市と唱へ、鳳至町一千戸の産土神と仰がれるばかりでなく、一国の大宮として衆庶の尊崇を集めてきたのである。
始め当社は大屋庄(大屋村一帯)御霊地山に鎮座され、神宮寺を鳳至院と称し壮大を極め神部十二員の民邸等の旧跡今に残し、釈迦堂、仁王堂等の地名往昔の盛況を証するが、近古水難、兵乱の為に現在地に移し奉れるものであります。
現社殿は文化10年所口(七尾)の住人芝田新助矩一により建造されたもので、特に本殿はその構造の堅実なる手法向拝にほどこされた虹染、木鼻の彫刻、胴貫の花鳥、透彫にいたっては絢爛をほこる徳川時代の建造物としての面影を遺憾なく発揮し、社寺建築木割法に則って築造せられた神社建築の当地方での代表的建造物であります。
現在、市重要文化財に指定されています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



住吉神社

住吉神社
主祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后
由緒
本社は延喜式内鳳至比古神社と伝えられ人皇十六代仁徳天皇32年住吉大神を能登に初めて奉斎し海上鎮護万民守護の大神として尊崇せられ一国の大宮として武門武将の崇敬厚く社殿の道営金品の寄進はしばしばなり、また古来大宮と俗称せられ今例祭を大宮祭と称してその祭礼市を大宮市と唱え鳳至町二千有余の産土神と仰がれるばかりでなくこの地方の大宮として衆庶の尊崇を集めてきたのである。
始め当社は大屋庄御霊地山に鎮座され神宮司を鳳至院と称し壮大を極め神部十二員の居邸等の旧跡今に残り、釈迦堂・仁王堂の地名に往昔の盛況を証するが近古水難兵乱のために現在地に移し奉ったものである。
現社殿は寛文10年建造されたもので特に本殿は高欄をほぼ徳川期の建造物としての面影を遺憾なく発揮し神社建築の等地方での代表的建物である。
現在共に輪島市重要文化財に指定されている。

社頭掲示板



住吉神社

本社ハ延喜式内鳳至比古神社ナリト傳ヘラレ、仁徳天皇十二年紀井國牟婁縣ヨリ初メテ鈴ノ縣二勧請セラレタルヲソノ創始トナス、當時ハ大屋庄今ノ大屋村字釜谷字高塚山二鎭座サレタリト傳へ中古同字御璽地山四塚二遷座シ(中略)鳳至町ハ元四塚山麓ニアリシモ近古水難兵乱ノ爲現在ノ地二移リ本山モ亦現在ノ地二移ル

神社明細帳



住吉神社

門武将の崇敬又深く、社殿の造替、金品の寄進屡々なり、又前田利家天正10年能登巡国の際、本社に参拝し社殿修復料50俵の地を寄せ、神主浅井則信に田地を与えたるを始めて前田家累代篤く本社を崇敬された。又、本社は古来大宮と俗称せられ、今に例祭を大宮祭と称し、其の祭礼市を大宮市と唱へ、鳳至町1000戸の産土神と仰がれるばかりでなく、一国の大宮として衆庶の尊崇を集めてきたのである。始め当社は大屋庄(大屋村一帯)御霊地山に鎮座され、神宮寺を鳳至院と称し壮大を極め神部十二員の民邸等の旧跡今に残し、釈迦堂、仁王堂等の地名往昔の盛況を証するが、近古水難、兵乱の為に現在地に移し奉れるものであります。現社殿は文化10年所口(七尾)の住人芝田新助矩一により建造されたもので、特に本殿はその構造の堅実なる手法向拝にほどこされた虹染、木鼻の彫刻、胴貫の花鳥、透彫にいたっては絢爛をほこる徳川時代の建造物としての面影を遺憾なく発揮し、社寺建築木割法に則って築造せられた神社建築の当地方での代表的建造物であります。現在、市重要文化財に指定されています。

社頭掲示板



能登国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA