総丈一尺七寸余、薄緑色の真石を奉祀するという。 気多神社の最大の神事である平国祭には、神輿に当社祭神少彦名命は大己貴命と同座して遠く所口(現在の七尾市)にある気多本宮へ渡御する慣行が今も続けられている。この神事は、気多神社の春祭にあたつて本つ宮だつた気多本宮へ渡御するという古儀として注目されるものである。これに当社の少彦久命が加わるというのは、気多神社と深い関係にあると思われる。 |
由緒 式内宿那彦神像石神社御由緒 神代の昔、祭神の少彦名命は大名持命とともに、能登国を巡行、多気倉長命と力をあわせて国土の平定開発に神功をたて遂にその霊を神石に留めて、金丸宮地の地に鎮まり給うた。 崇神天皇の朝、この神石を当社に奉安した。 清和天皇、貞観2年6月9日桜井宿祢基継を勅使として当社に参向せしめ、位階正三位神地四丁余を賜い、官社に列せらる。 醍醐天皇の朝、延喜式に国幣の小社としてその名をつらねる。 明治10年3月内務省より国幣中社気多神社の摂社とせられ、同13年3月25日郷社に列し、同41年神饌幣帛供進神社に指定せらる。 祭神の中、建御名方命は鎌宮諏訪神社、中筒男命は住吉神社、大名持命は春日神社の祭神で、明治41年合併された。 (以下社頭石碑) 祭儀 祭典多き中にも平国祭、勅使祭は大祭である。平国祭は3月20日夕刻に気多神社の神輿が本社の拝殿で一泊、翌朝本牡の祭神が右神輿に遷座せられ七尾市所口に神幸、23日午前に右神輿が本社に還御あって祭典を奉仕する、この時宮地区より調進の白団子を盛り、カツキの箸をそえて青菜・干大銀とどもに献ずる。勅使祭(例祭)は貞観2年6月9日現在は7月9日に官社に列したのを記念して行う。一に「麦まつり」ともいう。 昭和61年2月18日 宮司 梶井重雌識 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宿那彦神像石神社 神代の昔、祭神の少彦名命は大名持命とともに、能登国を巡行、多気倉長命と力をあわせて国土の平定開発に神功をたて遂にその霊を神石に留めて、金丸宮地の地に鎮まり給うた。崇神天皇の朝、この神石を当社に奉安した。清和天皇、貞観2年6月9日桜井宿祢基継を勅使として当社に参向せしめ、位階正三位神地四丁余を賜い、官社に列せらる。醍醐天皇の朝、延喜式に国幣の小社としてその名をつらねる。明治10年3月内務省より国幣中社気多神社の摂社とせられ、同13年3月25日郷社に列し、同41年神饌幣帛供進神社に指定せらる。 祭神の中、建御名方命は鎌宮諏訪神社、中筒男命は住吉神社、大名持命は春日神社の祭神で、明治41年合併された。 石川県神社庁 |
宿那彦神像石神社 上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと。 よって崇神天皇の朝、彼の霊石を当社に奉安し、清和天皇貞観2年(860)庚辰6月9日戌子大穴持命・宿那彦像石二前並列、於官社櫻井基橙勅使として当社に参向し位階三位、社地四丁余りを賜いたりとぞ。 以来応安2年及び天正8年(1580)仏性山の戦乱に逢い数疎の社殿等兵火に罹りて大半を鳥有に帰せしめたり。 明治6年(1873)金丸社と称したりしも、同10年3月内務省より国幣中社気多神社の摂社とせられ、同13年3月25日郷社宿那彦神像石神社拝殿に列し、同41年神饌幣帛供進神社に指定せらる。 神社明細帳 |