阿良加志比古神は往昔人智未開のときこの地方在住の老翁で大呑郷の長者であった、郷内に毒蛇悪鳥等が栖居し、人蓄を害していた。翁は身心を尽してこの除去に努め、海から来着した少名彦神と諜って、毒蛇悪鳥を誅伐した。 |
阿良加志比古神社 延喜式内 阿良加志比古之神之社 宿那彦神像石神社 御由緒 勧請歴不詳なるも、延宝5年神主家明細お届書によれば、天平宝字8年勅使藤原永平、口能登大呑熊郡別山東邑に熊武都の長者と諱賜ひ祀らる大呑六合郷里大宮にと玖郎前関に坐す。貞宿那彦神像石社とに神鏡貳面を賜り再興の宣旨を給うと所載されている。 延長2年、藤原忠平撰集「延喜式巻第十」府能登郡十七座末行阿良加志比古ノ神ノ社 末筆貞宿那彦神像石社 と録す。 第122代明治天皇14年辛巳歳遷歴「大解除式」第20回解斎と在るを逆算すれば初回は聖武天皇神亀天平13年辛巳歳「蔵開らき」されたことになる。 亦、奈良正倉院の御物丹物の調庸銘が当大宮の鎮座地名に合致 万葉集の国守家持卿の出挙の歌 3881珠洲能宇美に朝開らきして榜ぎ来れば 奈賀浜の浦に月照りに家里 右、治布に還る時之を作る 注に 治布は大沼郡(元の郡名) 今、大呑熊郡別山東邑小字治布天の地名其れならむ 神護院霊夢山真言布陀楽寺別当舎跡地は治布大門なり 宮司 大畠義成謹写 社頭石碑 |
阿良加志比古神社 本神社ハ天正年間上杉謙信當國入攻ノ兵災二罹リ記録確証等傳バラス、創立ノ年代等ヲ詳ニセザルモ、聊モ、阿良助志比古神ハ往昔人智未開ノトキ此地方在住ノ老翁ニシテ大呑郷ノ長者ナリ、郷内二毒蛇悪鳥等ノ栖居シ、人蓄ヲ害スル事甚シキヲ憂ヒ、身心ヲ尽シテ之等ヲ支除シ、郷民ノ安棲ヲ願フコト切ナリ、一日翁生業ノ傍ラ海岸(今の釜崎ノ邊)二塩ヲ焼カムトシテ立チ給ヘリ時、沖合ヒヨリ小舟ニテ寄リ來リシ少名彦神卜諜り挟ヲ乞ヒテ、毒蛇悪鳥ヲ誅伐悉ク事向ケ和セ寛へ給ヒシカバ、彊土日二開ケ住民漸ク安穏二治マレルヲ以テ郷民其ノ厚徳ヲ敬慕シ遂二老翁ヲ阿良加志比古と尊称シテ風光明眉ノ今ノ地二宮殿ヲ相シ鎭メ祀り、阿良加志比古神社ト称シ大呑郷ノ総崖土神トシテ崇敬シテ今日二至ル、基ノ間孝謙帝ノ御宇天平宝字八年藤原永、年ヲシテ神社再興ノ宣旨ヲ賜リ、延喜年中朝命アリテ式内ノ一社二撰パレ、寛永、延宝ノ頃、時ノ地頭土方彦三郎、土方伊賀守雄隆等代々ノ代官、年中式祭ニハ必ス参向セラル 大呑六合絡社ト称シ、明治14年2月17日郷社二列セラレ、明治41年4月8日神饌幣帛料供進神社二指定セラル 神社明細帳 |
阿良加志比古神社 郡内唯一延喜式に社号を留め、創祀由緒として、熊渕川の長者、黒崎関縄に座す貞観式内宿那比古神像石社の御祭神との協力物語による平定神話が伝承され、慶安年の家録による山崎村外73村の崇敬を以て祀られ、古式年中行事が多く、例大祭の御内渡幸解除式があり、垂姫ヶ崎での弓神事が行われる。 石川県神社庁 |