孝元天皇の創祀という。崇神天皇が当社の祭神を分霊し、羽咋郡竹津浦に勧請し気多神社とされた故に、当社を気多本宮と称する。 一説に、気多大社は孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・能登生国玉比古神社=気多本宮)し、崇神天皇の御代に羽咋市寺家町に遷座したとも伝えられる。 |
由緒 由緒 延喜式に見られる能登生国玉比古神社といわれ、孝元天皇の創祀という。 崇神天皇が当社の祭神を分霊し、羽咋郡竹津浦に勧請し気多神社とされた故に、当社を気多本宮と称する。 天正年間に前田利家旧社地所口より現在の所口へ遷された。 明治5年3月23日県社に列し、同39年12月29日神饌幣帛料供進神社に指定された。 大正12年神門及び拝殿を銅葺とし、昭和42年より46年に亘り社殿を大修理した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
能登生国玉比古神社 上世の昔、大己貴命、出雲国より因幡国気多崎(因幡の白ウサギの地)に至り、八上比唐フ許に通せ給い、夫より鹿・亀の二霊に駕して、当国当所に渡らせ給う、今の府中の浦是なり。 この時老翁夫婦出向きて、菓餅二品を柏葉に盛りて饗す。 一品は野老、一品は焼付餅。 曰く、我此の地に住せる事無窮。 汝命、永く此の地に留座して国土人民を保護し賜えと、応諾了て去りぬ。 伝え曰く、此の老翁夫婦は素戔嗚尊・稲田姫の二神也と云々。 その頃、此の国に大鷲棲みて人民を害し禽獣を傷う。 大己貴命速に鳳鳥に駕して是を降伏し給う。 依ってこれ萬類其の恩頼を蒙る。 霊験日に新にして人皇八代孝元天皇宮社を建て、春秋の御祭甚だ厳重なり。当国の生国玉と申す事、仰ぎて可尊崇者也。 羽咋郡誌 |
能登生国玉比古神社 當社ハ延喜式ニ見ユル能登生國玉比古神社ト謂ハレ、社記ニ曰ク祭神大己貴命ハ始メ出雲國ヨリ此ノ所ロニ着キ給ヒシガ、當國鹿島路ノ湖水ニ毒蛇棲ミ人民爲メニ苦シメザリト聞キ給ヒ往キテ之ヲ退治シ、途ニ羽咋郡竹津浦ニ垂跡シ結フ、今ノ一ノ宮是レナリト、是故ニ初メ垂跡シ給ヒが當社ヲ以テ本宮ト称シ奉ルト、社殿ハ孝元天皇ノ御代創建ゼラル、爾來崇神天皇ヲ始メ奉リ歴代ノ天皇勅願所トシデ幣帛供進使ヲ遣ハサレ、殊ニ天武天皇ノ御宇ニハ尽ク社殿ヲ造営セラ竣工スルニ及ビ遷座ノ宣旨ヲ賜レリト、承平元年日野快樂院ヲ遺シテ社殿ヲ修理セシメラレ建武元年國司中院少將定清ニ詔シテ社殿ノ修理ヲ加ヘシメラレ給ヘリ、弘治三年管領畠山義綱ノ崇敬一方ナラズ社殿ノ大改築ヲ行ヒ諸殿萬端備リシヲ、惜シイカナ天正年間ノ兵災ニカカリ悉皆烏有ニ帰セリト云フ、然ルニ天正年間前田利家當國主トシテ入國スルヤ、社地愛宕山ニ新城(七尾城)ヲ築カムトシテ、其ノ南方ニアタル明神野二町四方余ノ土地ヲトシテ、此処ニ當神社ヲ移転シテ再建セリ、現今ノ鎭座ハ即チ此ニシテ爾來前田氏ハ社殿ヲ改築シ或ハ社領ヲ寄進シ崇敬厚カリシナリ、明治四年廃藩置縣ノ制布カルルヤ郷社ニ列セラレ、次イデ同五年三月縣社ニ列セラル。 神社明細帳 |
能登生国玉比古神社 延喜式に見られる能登生国玉比古神社といわれ、孝元天皇の創祀という。崇神天皇が当社の祭神を分霊し、羽咋郡竹津浦に勧請し気多神社とされた故に、当社を気多本宮と称する。天正年間に前田利家旧社地所口より現在の所口へ遷された。明治5年3月23日県社に列し、同39年12月29日神饌幣帛料供進神社に指定された。大正12年神門及び拝殿を銅葺とし、昭和42年より46年に亘り社殿を大修理した。 石川県神社庁 |