「くて」という語は、土地が崩壊する、動き崩れる地すべり現象をあらわす語であり、久江地方は、甚しい地すべり地帯である。 この地すべりの霊威を神格化して祭ったものと思われる。 |
由緒 久弖比古神社の由緒 延喜式内の旧社で創立の年代は不詳であるが、天平宝字6年大旱の際、神徳効応せしより御田大神とも称えられ、毎年4月11日、12日執行の「オケラ餅神事」は近郷の住民集合、五穀豊年祈願の神賑行事盛大に、醍醐天皇朝規の遺格今に存せりと言う。 明治31年郷社より県社に列する。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
久氐比古神社 祭神 久延毘古神 天目一箇神 火産霊神 久延毘古神は古事記に「この神は山田の曽富騰(案山子)のこと、足は歩かねど居ながらにして天下のことを知れる神なり」と書かれてあり、博識の神で田や山を司る神なり。 天目一箇神は古典に「天岩戸に隠られた天照皇大神をお迎えする祭祀に献奉りし、鏡の元鉄を鋳造し、自らも刀斧鉄鐸を造り献奉りし」と書かれてあり、鉄の道具を造り司る神なり。往古当神社が剣神社、剣明神と崇拝されたのはこの祭神の御神徳なればなり。 火産霊神は迦具突智命とも称え火を掌り護り給う神で、この神の恩頼により火の禍を避け火を防ぎ鎮めんと祀りし神なり。 久延毘古神天目一箇神は最初に久江に定着した住民の五穀豊穣祈願神として祀られ久氐比古神社と称した。1120年前制作された延喜式に「小社に列し祈年の国弊に預かる」と記される古社である。 火産霊神は時の推移と共に住民の過半数の守護神として祀られ愛宕神社と称し 江戸末期に久?比古神社に移転合祀す 明治31年県社に列し 当時久江に在りし 貴船 諏訪 櫛の三社を境内社とし現在は社務所内に奉斎す 昭和初期まで続けた春祭の神賑行事の「オケラ餅の神事」は醍醐天皇朝規の遺格を 現今に伝えるものと盛大に執行された 宮司 今井久元 撰文 社頭石碑 |
久氐比古神社 久延毘古神は、古事記に「この神は山田の 曽當騰(案山子)のこと足は歩かねど居ながら にして天下のことを知れる神なり」と書かれてあり博識の神で田や山を司る神なり。 天目一箇神は、古典に「天岩戸に隠られた 天照大神をお迎えする祭祀に献奉りし鏡の元鉄を鋳造し 自も刀斧鉄鐸を作り献奉りし」 と書かれてあり、鉄の器具を造り司る神なり。 往古当社が剣神社 剣明神を崇拝されたのは この御祭神の御神徳灼なればなり。 火産霊神は、軻遇突智命とも称え火を掌り、護り給う神で、この神の恩頼に依り火の禍を 避け火を防ぎ鎮めんと祀りし神なり。 久延毘古神、天目一箇神は、最初に久江に定着した住民の五穀豊穣祈願神として祀られ、久氐比古神社と称した。平安時代の延喜式に「小社に列し祈年の国幣に預る」と記される古社である。火産霊神は時の推移と共に住民の過半数の守護神として祀られ 愛宕神社と称し、江戸末期に久氐比古神社に移転合祀す。明治31年県社に列し 当時、久江に在りし、貴船社、諏訪社、櫛社の三社を境内社とし、現在は社務所内に奉斎す。 特殊神事である春祭の神賑行事「オケラ餅神事」は 醍醐天皇朝規の遺格を現今に伝えるものと現在も盛大に執行されている。 石川県神社庁 |