社伝によれば「神功皇后征韓の折その御帰途御乗船の一部風浪のため字川尻に漂着し、その部將は從者と共に字垣吉に居住してその守護神少比古那神を垣吉の山間に奉祀し社号を荒石比古神社と称したのがその創祀。」 |
荒石比古神社 田鶴浜町字川尻に鎮座まします荒石比古神社はその昔1000年前第60代醍醐天皇の御代に延喜の制定められし時の式内社として全国3132座の1に数えられて古来藤原前期より崇敬し奉ってきたのであります。 往古1700年前神功皇后征韓御帰途の折り御乗船の一部風浪のため川尻に漂着され給いその武将は従者と共に字垣吉に居住されその守護神を垣吉の山間に奉祀し社号を荒石比古神社と称され給うたのがその創祀であります。その後神示によって通称大宮地先つ森とも云われし現鎮座地に社殿を造営し遷し奉ったと言い伝えられております。 御祭神に石凝姥命、倉稲魂命であらせられ中古両部神道の旺盛なる頃は薬師十二神と崇められて尊崇極まりない神様でありまして又都怒我阿羅斯等命とも云われております。石凝姥命は高天原において天照大御神 天岩屋戸にこもられ給うた時三種制作につき御高績を現され御鏡を鍛え造らせ給い大御神様の御顔を写し奉った御由緒御事績が古事記にも書かれているのであります。ご鎮座地は遠く源を鞍掛山麓から流れを発し悠久川尻川の流れと共にその辺に皇神奉祭にふさわしく先つ森の大宮地と往古より称えて鎮座ましました隆盛が偲ばれるのであります。私達は、私達のいのちを御守り下さる氏神様を始め奉り生活をさせて下さる倉稲魂神を心からお祀りされた祖先の方々の報賽に感謝し誠を捧げねばならぬと思う次第でありますので漸次御社殿並に御境内を清く明るく整備し神様に美しくして差し上げたいと茲に有志の方々の御協力を仰ぎ御奉賛をひたすら御願い申し上げる次第であります。 荒石比古神社社司 大盛り宣雄 編誌 社頭掲示板 |
荒石比古神社 延喜式内社にあてられ、中頃薬師十二神社とも称した。神功皇后征韓の折、帰途乗船の一部は風浪の為、川尻に漂着し、その従者らは垣吉に居住して、その守護神少比古那神をこの山間に奉祀し、社号を現社名としたのがその創祀である。その後、神示によって現社の地、通称大宮地に社殿を造営し奉遷したともいう。 石川県神社庁 |