溝水一布氏は『能登国満鮮関係神社私考』において「熊木は高麗来なるべく出雲に於て新府の民の来れると云ふ今木と同語義によるもの(中略)朝鮮にて今も高麗冑とて貴人の用ふる胃様の帽子あり、久麻加夫都は乃ち此れなり(中略)久麻加夫都を冠れる阿良加志比古にて高麗より来れる一功神なりと思料す。」 |
由緒 久麻加夫都阿良加志比古神社の由緒 当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。 御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。 この神々は韓国の王族で阿良加志比古神については地神とも、三〜四世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。 都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」二年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等。』の記事があり、四〜六世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。 毎年9月20日に行われます例祭は一名を『二十日祭り』とも言い、昭和56年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。 祭りは20日のお旅所である加茂原までの渡御の順番を決めるクジ引きをする6日の「しらい」から始まり、19日夕刻からの「奉幣迎え」、翌20日早朝から氏子十九の末社が本社に集まり境内へと「参入」する、定刻10時30分に社務所から宮司、献幣使、神職、氏子総代が出発し「奉幣式」を行い、五穀豊穣・万国平安を祈念する「祭典」を始めます。 高さ20m余りの真紅の大枠旗三十数基と金色に輝く二十基の神輿。 華やかな色彩の鳥兜をかぶり、狩衣を着け、面棒を持った猿田彦の乱舞や鉦・太鼓のリズムは華麗にして荘厳な中にも地方色極めて豊かな情趣をかもし出す美観は全国にも稀に見る祭礼であります。 摂社の『薬師社』には藤原時代の作とされ作が極めて優秀であることから県の有形文化財に指定された「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」が安置されており神仏混淆の名残をとどめています。 境内にある校倉造りの『宝物殿』には弘法大師が能州遊行の砌、当社に寄進されたと伝えられる「紺紙金泥法華経(こんしこんでいほけきょう)」が納められていました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
枠旗祭 国指定重要無形民俗文化財「枠旗祭」 古代、中世以来熊来郷(荘)の総社として近郷の人々から尊崇され、一般的には『おくまかぶと」の称で親しまれてきた式内社である。祭神の一柱は意富加羅国の王子で万葉集に集録されている当地の民謡『新羅斧の歌』と共に、古代朝鮮半島との深い交流をしのばせる座像で、昭和25年国の重要文化財に指定されている。 この神社の秋の大祭「お熊申祭』は数多い能登の奇祭の中でもきわだっており、毎年9月20日に行われることから『二十日祭』とよばれ、各集落(19末社)からくり出した鉦・太鼓・猿田彦を従えた祭礼の行列が本社へ集合して祭典が行われる。高さ20メートルもある真紅の大枠旗20数基と、金色に輝く20基の神與を若衆が喚声をあげ勢いよく担ぎ、さしあげを繰り返す。見せ場は、各集落が本社に参入する時や、猿田彦が乱舞する『奉幣式』加茂原での練り回りなどである。熊甲祭の枠旗行事は、昭和56年国の重要無形民俗文化財に指定されている。 社頭掲示板 |
久麻加夫都阿良加志比古神坐像 重要文化財 昭和25年8月29日指定 木造 久麻加夫都阿良加志比古神坐像(1躯) 平安時代後期 久麻加夫都阿良加志比古神社 鹿島郡中島町字宮前ホ−64 像高 68.0cm 膝張り 44.0cm 膝奥 30.0cm 本像は、一木造り、丸彫りで、頭部に異様に大きい巾子冠を頂き、変形の袍衣に身を包み、胸前に手をこまねいて坐する神像である。本来は笏を手にしていたと考えられ、取り付け用の穴が残っている。また、顔や胸部は胡粉で彩色し、眉や髭を墨で描く。袍衣は花文を散らしているが、冠や袍衣が、通例の神像と比して、異例の表現をとるところに特色がある。彫法は、神像特有の簡素なもので、衣裳の細やかさは省略され、厚く肉どる量感に満ちた像容である。また、両眼を大きく見開く強い面相には神威があふれている。年代は、平安時代後期と考えられる。 なお、久麻加夫都阿良加志比古神社は、阿良加志比古神・都奴加阿良斯止神を祀り、延喜式内にみえる古社で、通称「おくまかぶと」と称され、古くから「熊甲社」・「熊甲大明神」と称し、能来庄の惣鎮守として崇敬されてきた神社である。 昭和60年「石川県の文化財」 |
熊甲二十日祭の枠旗行事 重要無形民俗文化財 昭和56年1月21日指定 熊甲二十日祭の枠旗行事 所在地 中島町 (お熊甲奉賛会 鹿島郡中島町字宮前) 鹿島郡中島町字宮前に鎮座する久麻加夫都阿良加志比古神社(通称「熊甲神社」・「お熊甲」)における9月20日の秋祭の行事。 神社は、近郷22地区にある19の末社の総本社なので、各地区では、前夜に本社から奉弊を迎え、翌20日には神輿や枠旗の行列をととのえ、 猿田彦の先導で、本社へくり込む。枠旗は、真紅の羅紗旗で、旗竿の上にはドンボコ・ハタガシラをつけ、総高二十数メートルという長大なもので、数十人が担ぐ。 例祭後、本社の神輿を先頭にしてお旅所に渡御し、盛大なお回り神事を営む。天狗面の猿田彦は、鉦・太鼓に合わせて乱舞し、 金色に輝く神輿、林立して練り回る枠旗は地上すれすれまで傾ける「島田くずし」を演ずるなど、壮観をきわめ、豊作・豊漁の歓喜をあらわす。 地域をあげて参加する盛大な寄り合い祭で、枠旗をはじめとする諸行事など、能登の秋祭の代表例として重要である。 昭和60年「石川県の文化財」 |
久麻加夫都阿良加志比古神社 当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。この神々は韓国の王族で阿良加志比古神については地神とも、3〜4世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」2年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等。』の記事があり、4〜6世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。毎年9月20日に行われます例祭は一名を『二十日祭り』とも言い、昭和56年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。祭りは20日のお旅所である加茂原までの渡御の順番を決めるクジ引きをする6日の「しらい」から始まり、19日夕刻からの「奉幣迎え」、翌20日早朝から氏子19の末社が本社に集まり境内へと「参入」する、定刻10時30分に社務所から宮司、献幣使、神職、氏子総代が出発し「奉幣式」を行い、五穀豊穣・万国平安を祈念する「祭典」を始めます。高さ20m余りの真紅の大枠旗30数基と金色に輝く20基の神輿。華やかな色彩の鳥兜をかぶり、狩衣を着け、面棒を持った猿田彦の乱舞や鉦・太鼓のリズムは華麗にして荘厳な中にも地方色極めて豊かな情趣をかもし出す美観は全国にも稀に見る祭礼であります。摂社の『薬師社』には藤原時代の作とされ作が極めて優秀であることから県の有形文化財に指定された「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」が安置されており神仏混淆の名残をとどめています。境内にある校倉造りの『宝物殿』には弘法大師が能州遊行の砌、当社に寄進されたと伝えられる「紺紙金泥法華経(こんしこんでいほけきょう)」が納められていました。 石川県神社庁 |