「古昔、桃ノ木之船ニメサレテ当村海岸ニ着給フ、依テ村名ヲモゝガ浦ト云フ」と漂着神伝説がある。 |
由緒 百沼比古神社由緒 社伝に云う当社、百沼比古神社は延喜式内の官社なり。 古昔、百沼比古神、桃の木の船を召されて当村の海辺に着き給う、よって村名を〔百が浦ももがうら〕と云う。 〔桃が〕の〔が〕は〔の〕に通じ〔の〕は〔ぬ〕に通ず、百沼比古神、着き給う所なるを以って〔ももぬうら〕といいしを後世〔百が浦〕と転称、いま村名〔百浦 ももうら〕と云う。 その創建は大神この地に着き給い、賊を平定、村民を愛し、農耕、漁獵の道を拓き遂にこの地に薨じ給う。 村民御神霊を崇め祀りて祠を興す、これ百沼比古神社の創始なり、時に崇神天皇御宇と伝う。 嘉祥3年8月より数度、国内諸神と共に班幣に與る。 朱雀天皇天慶3年正月授従五位。 後円融天皇永徳元年2月授三位。 明治42年同村の若宮社を合併する、9月11日の秋祭りは〔火焚きまつり ほだこまつり〕として有名。 この地方に於ける神幸祭の〔お火濯ぎ おひすぎ〕は当神社の〔火焚まつり〕がその起源である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
百沼比古神社 字百浦に在り、村社にして百沼比古、大鷦鷯命を祀る、式内社なり、嘗て加茂大明神と称せり、社伝に云く、往昔祭神桃の樹にて造れる船に乗りてこの土に着す、村名之に由りて起れりと、能登名跡志に百沼比古神社を堀松村字末吉に在りとするものは誤れり、この社の秋季祭を火焚祭(ほたこ祭)と称す、毎年境内の雑木及枝等を切払ひ、是を祭礼の夜神輿の還幸近づきし頃、境内の中央に積重ねて焚き、神輿を拝殿に納めて後は、青年団其の周囲を幾十回となく駈け廻り、時にはその火を高く散らし、時には火中へ踊り込む者さへありて観者甚だ多かりしが、今は境内の雑木減じたるため、二十年余前より其の伐採を止め、藁を以て代用することとせり。 石川県羽咋郡誌 |
百沼比古神社 社伝に云う当社、百沼比古神社は延喜式内の官社なり。古昔、百沼比古神、桃の木の船を召されて当村の海辺に着き給う、よって村名を〔百が浦ももがうら〕と云う。〔桃が〕の〔が〕は〔の〕に通じ〔の〕は〔ぬ〕に通ず、百沼比古神、着き給う所なるを以って〔ももぬうら〕といいしを後世〔百が浦〕と転称、いま村名〔百浦 ももうら〕と云う。その創建は大神この地に着き給い、賊を平定、村民を愛し、農耕、漁獵の道を拓き遂にこの地に薨じ給う。 村民御神霊を崇め祀りて祠を興す、これ百沼比古神社の創始なり、時に崇神天皇御宇と伝う。嘉祥3年8月より数度、国内諸神と共に班幣に與る。朱雀天皇天慶3年正月授従五位。後円融天皇永徳元年2月授三位。明治42年同村の若宮社を合併する、9月11日の秋祭りは〔火焚きまつり ほだこまつり〕として有名。 この地方に於ける神幸祭の〔お火濯ぎ おひすぎ〕は当神社の〔火焚まつり〕がその起源である。 石川県神社庁 |