瀬戸菅原神社
せとすがわらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】瀬戸比古神社 能登国 羽咋郡鎮座

   【現社名】瀬戸菅原神社
   【住所】石川県かほく市瀬戸町ル90
       北緯36度46分39秒、東経136度45分14秒
   【祭神】天滿天神 少彦名命
       (合祀)伊邪那美命 大国主命 (配祀)速秋津比古神

   【例祭】3月25日 例祭
   【社格】
   【由緒】養老3年(719)僧泰澄参籠
       天正12年(1584)兵火により焼失
       寛永年間(1624〜)前田利家末森城主奥村永福に命じ社殿建立
       明治6年瀬戸菅原神社に改称
       同41年4月8日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀】江戸時代は「天神社・天満宮」と称していた
   【社殿】本殿流造瓦葺
       拝殿・神輿庫・神饌所

   【境内社】

往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し、延喜式内瀬戸比古神社と云い、大海の庄十二ケ村の総社として信仰されている。


由緒

瀬戸菅原神社御由緒 (御由来)当社の社伝及び神社明細帳によれば、往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し、延喜式内瀬戸比古神社と云い、大海の庄十二ケ村の総社として信仰され、歴朝、奉幣使が幣帛を奉って参詣されてきた、その氏子崇敬者も多く、又神田も広かった。
戦国の天正12年(1584)社殿や宝物は、兵火にかかって悉く焼失したが、寛永年間(1624〜)に、前田利家の命をうけて奥村永福がこれを再建、しばらくして万治2年(1659)には、天満天神と少彦名命を相殿にお祀りした。 
宝暦4年(1754)には、各村々は神社を建立し、氏神を勧請してお祀りしたが天満天神の祭日には、たくさんの参詣人で賑わったので世上では、天神社と流布されるほどであった。
明治6年(1873)瀬戸比古神社を瀬戸菅原神社と改称した。
明治40年(1907)10月5日、当社に白山社、大国社が合祀を届出されたが二社に於ては、祈年祭並びに秋祭は、その後も斎行されている。
明治41年4月八日神饌幣帛供進社に指定された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



瀬戸菅原神社

鎭座地 石川県かほく市瀬戸町上段78番地の2
境内地 766.4四坪
御祭神
速秋津日子神 天満天神(菅原道真公) 少名彦命
御神徳
 速秋津日子神は水戸神で、川と海を守護し、豊作をもたらす灌漑をつかさどり、またあらゆる罪・穢れを清め給う祓戸の神として、生業の繁栄と家内安全を招来する。
 天神様と親しまれる菅原道真公は、学問・書道・至誠の神、また農業守護の火雷天神として信仰される。
 少名彦命は、医療・医薬・酒造りの神として敬われる。
 当社は、平安時代の『延喜式』内「瀬戸比古神社」であったと伝えられ、往古より、大海荘十二カ村(大泉荘の南部)の総社として信仰されてきた。
 天正12年(1584)の末守の合戦の際、兵火にかかって社殿や宝物を悉く消失したが、前田利家の遺命をうけた奥村永福により寛永元年(1624)に再建された。万治2年(1659)に、天満天神と少名彦命を合祀してのち、天神の祭日にはたくさんの参詣人で賑わったので、「瀬戸町村の天神社」と呼ばれるようになった。
 宮司は、もと当山派(真言宗)の山伏で、教伝坊・清宝院などを称し、明和2年(1765)に大海山天龍寺と改めた。
明治元年(1868)に復職し、瀬戸氏を名乗る。
同6年(1873)瀬戸天神社を瀬戸菅原神社と改称した。
 昭和62年(1987)社殿造営奉賛会を結成、氏子崇敬者の厚い信仰心と浄財をもって、平成元年(1989)5月地鎮祭ののち神輿庫を新築、同2年2月立柱祭、3月4日に区民総出で上棟祭、そして5月6日にはめでたく竣功 慶賀祭を斎行、二百人の稚児行列が区内を練り、区をあげて社殿改築の大事業の完成を祝った。
 また、平成16年(2004)の台風で倒壊した河合谷の御山神社の神木の寄進をうけ、同17年手水舎を新築した。
祭 事
歳旦祭 1月1日
例祭・祈念祭 3月25日
秋祭 9月第一土曜日とその前日
新嘗祭 11月23日
鎮火祭 12月22日

社頭石碑



瀬戸菅原神社

當社ハ往古ヨリ大海ノ庄瀬戸ケ口ニ鎭座シ延喜式内瀬戸比古神社ト称シ速秋津比古命ヲ祀ル。押水大海ノ庄十ニケ村ノ総社ニシテ歴朝数々奉幣使ヲ下シ幣帛ヲ奉リ給ヒ封戸神田多シ。養老三年僧泰澄参籠シテ祈願スル所アリ後両部トナリ神主数許外ニ多ク清宝院ト称スル社僧アリ。(中略)地方有数ノ名祠タルコト年久シカリシモ、後屡々海囎ニ遭遇シ社地諮階シテ毎ニ退転シ、加フルニ天正中社殿宝物悉ク兵焚ニ罹リ規模漸ク衰ヘテ遂ニ一時社號ダニ中絶ノ姿トナリシモ、既ニシテ國主前田利家末森城主奥村永福ニ命ジテ社殿ヲ建立シ僅ニ旧観ニ復シ(中略)萬治二年加賀國河北郡木津村寺屋嘉四郎ヨリ天満大神ノ御像ヲ預り、瀬戸比古神社相殿ニテ崇敬シタルニ天満大神之祭日参詣人多キガ為自然天神社ト世上ニ流布シタルコトモアリ。明治四十年十月五日同村字夏栗村社大國社(祭神大國主命)・同村字箕打村社白山社(祭神伊邪那美命)合併ノ許可ヲ得同月二十日之ヲ合祀シ、同四十一年四月八日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル

『南大海史』に載する社傳



瀬戸菅原神社

当社の社伝及び神社明細帳によれば、往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し、延喜式内瀬戸比古神社と云い、大海の庄12ケ村の総社として信仰され、歴朝、奉幣使が幣帛を奉って参詣されてきた、その氏子崇敬者も多く、又神田も広かった。戦国の天正12年(1584)社殿や宝物は、兵火にかかって悉く焼失したが、寛永年間(11624〜)に、前田利家の命をうけて奥村永福がこれを再建、しばらくして万治2年(1659)には、天満天神と少彦名命を相殿にお祀りした。宝暦4年(1754)には、各村々は神社を建立し、氏神を勧請してお祀りしたが天満天神の祭日には、たくさんの参詣人で賑わったので世上では、天神社と流布されるほどであった。明治6年(1873)瀬戸比古神社を瀬戸菅原神社と改称した。明治40年(1907)10月5日、当社に白山社、大国社が合祀を届出されたが二社に於ては、祈年祭並びに秋祭は、その後も斎行されている。明治41年4月8日神饌幣帛供進社に指定された。

石川県神社庁



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