崇神天皇御宇創建せられたる社にして延喜式内の社なり仁壽元年文徳天皇の御代より永徳元年後圓融天皇の御宇に至る迄に九度の神位を進められた。 往昔は現在の羽咋郡志賀町と鹿島郡鳥屋町との境にあたる眉丈山の山中に存し、過去二度の移転により現在地に祀られるようになつた。 |
由緒 瀬戸比古神社の由緒 当社は、崇神天皇御宇創建せられたる社にして、延喜式内の社なり。 仁壽元年文徳天皇の御代より永徳元年後円融天皇の御宇に至るまでに九度の神位を進められたり。 往昔は瀬戸郷と称し、一郷の惣社にして畠山領主より幾多の神田を寄附せられたりと傳う。 当社の境域は、最も幽古なる霊地にして、地形南北の山間に孤立し、瀬戸川の川の口を塞ぐ此川の水源は羽咋郡倉垣村の山境より発し、此処に架く天造地設の趣あり、御往時、羽咋郡地籍なりし折り、此地を以て能登郡との郡界とす。 今は、鹿島郡に属す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
瀬戸比古神社 当社は崇神天皇御宇創建せられたる社にして延喜式内の社なり。仁寿元年文徳天皇御代より永徳元年後円融天皇の御宇に至る迄に9度の神位を進められたり。 祭神は速秋津比古命、応神天皇、迦具土命が配祀され瀬戸郷の総社なり。明治41年神饌幣帛供進社に昇格す。 その後、黒川大明神を合 祀し、崇敬せられたり 社頭石碑 |
瀬戸比古神社 当社は、崇神天皇御宇創建せられたる社にして、延喜式内の社なり。仁壽元年文徳天皇の御代より永徳元年後円融天皇の御宇に至るまでに9度の神位を進められたり。往昔は瀬戸郷と称し、一郷の惣社にして畠山領主より幾多の神田を寄附せられたりと傳う。当社の境域は、最も幽古なる霊地にして、地形南北の山間に孤立し、瀬戸川の川の口を塞ぐ此川の水源は羽咋郡倉垣村の山境より発し、此処に架く天造地設の趣あり、御往時、羽咋郡地籍なりし折り、此地を以て能登郡との郡界とす。今は、鹿島郡に属す。 石川県神社庁 |