万葉のころから「志乎路」とよばれる道が峠越えして富山湾に通じていたことから、古くからこの地方には集落が形成され、ここに住む人々の信仰を享けていたものと思われる。 万葉集巻十七、には国司大伴家持が詠んだ歌として 之乎路から直越え来れば羽咋の海、朝凪ぎしたり船揖もがも が載せられ、境内にも大伴家持が参詣の折詠んだと伝わり古今集に載せらている 志乎の山さし出の磯に棲む千鳥君が御代をは八千代とそ啼く の歌碑がある。 鍵取神社と称するのは、『志雄町史』では羽咋の郡家の倉院がこの地に設けられ、その鍵が神格観されて信仰された結果ではないかとする。 |
志乎神社 當志乎神社ハ古ヨリ鍵取神社ト號シテ即チ大神ヲモ鍵取大明神ト尊称シ奉ル最モ鍵取大明神ト刻シタル古額今猶存ス傳へ曰フ毎年十月ニハ諸神出雲大社ニ参集シ給フ其時ニ當リ此大神ハ能登全國諸神社ノ留守番ヲ所聞食シテ諸神社ノ錠鍵ヲ預り坐スカ故ニ此御称號アリ依テ當社ノ大神ハ出雲ヘハ御幸給ハスシテ國ヲ守護シ玉フ 式内郷社志乎神社御由緒調査書 |
志乎神社 能登国羽咋郡志雄町字荻谷、荻島、敷波、三ヶ入会の郷社にして、古より鍵取社と号し、大神を鍵取大神と称え古びたる額面にも鍵取大明神とあり。式内社の一つにして、崇神天皇の御宇この神霊をこの地に勧請して産土神と奉斎し志乎神社と称えられた。明治4年7月旧区64ヶ村の郷社に列せられた。 石川県神社庁 |