杜屋神社
もりやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】村屋神社 長門国 豊浦郡鎮座

   【現社名】杜屋神社
   【住所】山口県下関市豊浦町大字黒井杜屋1541
       北緯34度7分23秒、東経130度54分41秒
   【祭神】三穗津姫命 (合祀)応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
   【例祭】4月14日 春季例祭 10月15日近い土曜日 秋季例祭
   【社格】旧県社 長門国三の宮
   【由緒】創建年代不詳
       天文4年(1535)3月大内義隆社殿造営
       永禄12年(1569)3月毛利元就改築社領二十九石寄進
       明治7年2月郷社
       大正12年1月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造萱葺
       幣殿・拝殿・神門・手水舎・社務所

   【境内社】東社・西社

特殊神事として「お忌祭」がある。下関市大字楠乃の住吉神社や、同市長府町忌宮神社のそれと同系統のもので、從来その期間1月18日から25日に互つて、神主は社務所に参籠、氏子の人共も家庭できびしい「物忌」に服して來た。歌舞音曲はもちろん、入浴・洗濯・牛馬の使用等が禁止され、触れ合つて音を発する金火箸や、箪司の環などには紙コヨリを巻いて音を押えるという徹底したものである。


由緒

今から約1050年前、醍醐天皇の延長五年(927)勅命によって撰進せられた延喜式という法典に当時日本六十六ケ国に分布する最も由緒ある神社2861社がいわゆる官社として認められ、国毎に載録されておりますが、これを特に式内社と称し、すべて1000年以上の古社として、全国的に認められた最も由緒深い神社といわれています。そして当社は当時村屋神社として次の通り延喜式に登載された式内社です。
長門国五座(大三座、小二座)豊浦郡五座(大三座、小二座)住吉座荒魂神社三座(並名神大)忌宮神社、村屋神社、この村屋神社が現在の杜屋神社であって長門国の式内社が、長門国一の宮の住吉神社、同二の宮の忌宮神社と、此の杜屋神社の三社のみであることがわかります。こうしてみますと、わたしたちは、1000年以上に及ぶ伝統と、全国的に認められた由緒深い氏神様を朝夕鎮守として仰いでいる次第ですが、これは郷土の誇り、氏子の誇りと自慢するに足るものです。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




杜屋神社

千古の名社
長門国三の宮(延喜式内社)
  杜屋神社由来
鎮座 山口県豊浦豊浦町大字黒井1541番地
主神 三穂津姫神
配祀 厚母八幡宮、萩尾八幡宮、両社を合祀
一、主神三穂津姫神については「日本書紀」神代下に次のように記載されています。
「時に高皇産霊尊、大物主神に勅したまはく、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ汝を疏き心有りと謂はむ。故れ今吾が女三穂津姫を以て汝に配せて妻と為む。宜しく八十萬神を領ゐて、永き皇孫の為に護り奉れと。乃ち還り降らしむ。」
一、延喜式(醍醐天皇延長5年(927年)に撰進せられた法典)に次の通り載録されています。
長門国 五座(大三座、小二座)
豊浦郡 五座(大三座、小二座)
 住吉坐荒魂神社 三座(並名神大)
 忌宮神社 村屋神社
註 この「村屋神社」が当社であることは神祇史料等で明らかである。
一、御祭神及び神社に関する諸伝説を伝う。
一、宝物
 大内義隆、毛利元就(豊浦町文化財指定)等の古文書
 能面(神楽面、土俗面)十余点
 棟札 多数
一、御祭礼
 春祭 4月14・15日
 例祭(秋祭) 10月14・15日
 お忌祭 1月18日夜〜25日朝

社頭掲示板



杜屋神社

杜屋神社は、延長5年(927)に撰進された『延喜式』の神名帳に社名が記載されている社格高い「式内社」であり、長門国三の宮と称されている。
本殿背後には「磐境」と思われる岩室もあるなど上代からの由緒を感じさせられる神社で、社宝も指定物件以外にも多数保存されている。 豊浦町指定有形文化財 昭和62年3月26日指定
木造随身椅像
楠材で造られた二体の随身像で、応永6年(1399)の墨書がある。その彫法は簡素で地方の仏師の手になるものであろうが、制作並びに再興の年月が明らかであり、地方の彫刻基礎資科として重要である。
豊浦町指定文化財(古文書二通)
昭和54年12月1日指定
大内義隆寄進状
天文4年(1535)に大内義隆が太刀一腰を寄進した際の文書。
毛利元就書状
永禄13年(1570)に毛利元就が、社殿造営の労をねぎらうとともに病気回復の祝意を伝えた大宮司掘立壱岐守に宛てた書状。
豊浦町教育委員会

社頭掲示板



杜屋神社

千古の名社 長門国三の宮(延喜式内社) 杜屋神社由来
鎮座 山口県豊浦豊浦町大字黒井1541番地
主神 三穂津姫神
配祀 厚母八幡宮、萩尾八幡宮、両社を合祀
一、主神三穂津姫神については「日本書紀」神代下に次のように記載されています。
時に高皇産霊尊 ( たかみむすびのみこと )、大物主神に勅 ( みことのり ) したまはく、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶 ( あれな ) ほ汝 ( いまし ) を疏き心有りと謂 ( おも )はむ。
故 ( か ) れ今吾が女三穂津姫を以て汝に配 ( あは ) せて妻と為 ( せ ) む。宜しく八十萬神を領 ( ひき ) いて、永き皇孫の為に護り奉れと。乃ち還り降らしむ。
一、延喜式(醍醐天皇延長5年(927年)に撰進せられた法典)に次の通り載録されています。
長門国 五座(大三座、小二座)
豊浦郡 五座(大三座、小二座)
 住吉坐荒魂神社 ( すみよしにますみたまのかみのやしろ ) 三座 ( 並名神大 )
 忌宮神社      ( いむみやのかみのやしろ )
 村屋神社      ( むらやのかみのやしろ )
註 この「村屋神社」が当社であることは神祇史料等で明らかである。
一、御祭神及び神社に関する諸伝説を伝る。
一、宝物
大内義隆、毛利元就 ( 豊浦町文化財指定 ) 等の古文書
 能面 ( 神楽面、土俗面 ) 十余点
 棟札 多数
一、御祭礼
 春祭 4月14・15日
 例祭(秋祭) 10月14・15日
 お忌祭 1月18日夜〜25日朝

社頭掲示板



杜屋神社

平安時代の『延喜式神名帳』に、「村屋神社」と記載されているのが当杜屋神社で、長門国式内三社のうちの一社である。主神三穂津姫神については、『日本書紀神代下』に次のような記載がある。「時に高皇産霊尊、大物主神に勅したまはく、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ汝を疏き心有りと謂はむ。故れ今吾が女三穂津姫を以て汝に配せて妻と為む。宜しく八十萬神を領ゐて、氷に皇孫の為に護り奉れと。乃ち還り降らしむ。」姫神は、出雲大社の御祭神大国主命(大物主神)の后神とある。当社創建の伝説として、次のようなことが伝えられている。一、筑紫平定を終えられた日本武尊が、海路穴門国(長門国)に入られたところ、大海化にあって命が危うくなった。その時、亀甲に乗った貴女三穂津命が現われ、尊の船を無事に毛呂の長浜に導いた(延宝三年=一六七五、『大宮司堀立亀松丸記』)。一、仲哀天皇が九州御征討のため、海路豊浦宮に行幸された。このとき、穴門の中ッ村毛呂の里に、霊光が終夜輝き渡るという不思議が報告された。天皇自ら潔斎ののち、この霊光をお祀りされた。この神が三穂津姫命で、守り屋の神と称したのが本社の本元である(元文2年=1737、『大宮司浜田出羽守長元記』)。一、『孝徳天皇本紀』に、「白雉元年2月、長浜毛呂里より白雉を獲り献上した」ので、天皇は守屋の宮に特便を送り礼拝をした。これが礼拝山の名の起源とするもの(寛元2年=1244=寅2月、『領地三郎源康頼記』)。一、北条実政による戦勝祝賀のための奉納舞踊に、「チュウニ」(徒士)、「ゴッポウナ」(護方女)、「ドヒョウシ」(度拍子、または土拍子)などの舞装束や楽器が伝えられたとするもの(『永禄の年代』)(旧県社)。

山口県神社庁



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