忌宮神社
いみのみやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】忌宮神社 長門国 豊浦郡鎮座

   【現社名】忌宮神社
   【住所】山口県下関市長府宮の内町1-18
       北緯33度59分57秒、東経130度59分16秒
   【祭神】仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
   【例祭】12月15日 例祭
   【社格】旧国幣小社 長門国二宮
   【由緒】仲哀天皇9年2月(200)創祀
       神亀年中(724−29)香椎宮から神功皇后を勧請
       貞観15年(873)12月従五位上
       天慶3年(940)正月正五位下
       永保元年(1081)2月正五位上
       永治元年(1141)8月従四位下
       治承4年(1180)12月従四位上
       元暦2年(1185)3月正四位下
       建仁元年(1201)2月正四位上
       弘長元年(1261)2月従三位
       建武4年(1337)11月足利尊氏参詣
       寛文11年(1671)3月造営
       延享元年(1744)造営
       明治6年4月県社
       明治9年1月焼失
       大正5年12月12日国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 忌宮神社
   【facebook】 忌宮神社
   【社殿】本殿入母屋造鋼板葺
       幣殿・拝殿・中門・手水舎・祭器庫・社務所・宝物館

   【境内社】高良社・若宮社・八坂神社・荒熊稲荷神社・惣社宮・守宮司神社

仲哀天皇・神功皇后が西国平定のために7年間にわたって皇居とされた「豊浦宮」の跡といわれている。また、仲哀天皇の遺体を土肥山で仮葬した際、神霊をを祀った場所ともいわれている。
神亀年中(724年〜729年)に香椎宮から神功皇后を勧請し、「忌宮」と称することとなった。加えて応神天皇を祀り「豊明宮」と称し、3社殿があったが火災による焼失を機会に合祀され「忌宮」が代表的な呼称となっている。現在の社殿は中央が「本殿」、左側が「若宮神社」、右側が「高良社」となっている。
飛地境内として浦珠、干珠の二島が境内に南面する関門海狭の内海に国指定の天然記念物として現存している。仲哀紀の「皇后得如意珠於海中」に由来するものと伝えられ、神霊の愚り給う尊貴の所として衆庶は上陸を遠慮し原始林を保存している。


由緒

忌宮神社は、第14代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のためご西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政務をとられた旧趾にある。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられたが、一年にして崩御(ほうぎょ)せられたので、神功皇后は喪を秘して重臣武内宿祢に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯欽(ひんれん−仮埋葬)せられた。
そして皇后はご懐妊中ながら男装せられ、熊襲を煽動していた新羅(しらぎ)征討をご決行、ご凱旋(がいせん)ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。これが当神社の起源である。そのあと、皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」 と称し、豊浦宮・忌宮・豊明宮と三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、その後中殿の忌宮に合祀したため次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。
古来、文武の神として歴朝の尊崇、武将の崇敬厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。社殿は明治9年惜しくも炎上し、そのあと仮殿として造営されたものを改修し今日に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




忌宮神社

長門国二ノ宮 旧国幣社 忌宮神社 由緒
忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御代に神功皇后を奉祭して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する忌みである。
現在の社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修す。
古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。
例大祭 12月15日 奉射祭 1月15日
春季大祭 5月15日(近い日曜日) 蚕種祭 三月二十八日
秋季大祭 10月15日(近い日曜日) 数方庭祭 8月7日より13日まで毎夜
御斎神事 12月7日より15日早朝まで斎行される特殊神事で境内周辺に注連縄を張って一般の進行を禁じ、神職のみ参籠して厳格な潔斎を行い、古式による秘祭を奉仕する。
境内社 荒熊稲荷神社 八坂神社

社頭掲示板



忌宮神社

数方庭の由来と鬼石
第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。
数方庭由来の碑
忌宮社司磯部重行ぬし我仕奉する御社に大陰暦の七月七日より十三日までよなよな数法庭とて身の程高きも賤きも幟或は燈籠を出して踊り廻る式あり幟は白き布か木綿かを以て造り一反を二幅に縫ふ其竿の先きに鳥毛をさし小旗と鈴とをつく小旗は赤き青き黄なるもあり色定まりなし我家の絞書けるものあり燈籠は其形も繪も様々にて枝葉ある竹に掲げ短冊をつく踊り廻る場は南の廣前とす先づ南面の第二の石階の下なる一の鳥居の左右より集ふ左は金屋町右は惣社町なり舊は藩より警護として目附組頭寺社奉行中間頭各属吏を率ゐ参り坂上の楼門に列り町よりは大年寄小年寄出でて庭上に列る是に於て幟先に進んでさて燈籠さて楽人と次第して石階を登る楽器は横笛大鼓鉦にて笛は武家役にて吹き方左右異なり楽人大鼓を庭上の大石の上に於て曲を始む燈籠揚げたる者幟捧げたる者一群一群にて大石を中にして吁々世以と呼りつゝ鳴る物の音につれて踊り廻る大鼓やめば幟さゝげたるものゝみ元の処に退出し此の式左右各二度にして終るかへるその道すがらしあん橋といふ古式の歌ひもの歌ひつゝ家にかへることなり一は彼の三韓国を征し玉ひし時の御出で立ちを送れる名残なりともいひ又は彼の国言向て帰へり玉へるを悦べる様を傳へたるなりとも云ふ大石は是仲哀天皇の熊襲のつはものゝ鬼の様なるを斬りて其頸埋めさせ給へるしるしの石なりといへり里人の或いは遠く世に傳へんが為に石碑建てんとすれど数法庭と言名いと異にして如何思なると問はるおのれ言へらく早く聞ける事なり思ふに御社に神宮寺及び七塔頭ありし頃七日より十六日まで念彿講修せしを以て自其方に移れるにて有べき其方の法楽ならず結願の日迄踊るべき事なりさるを此の頃十三日を限りとあるは名は怪しけれど里人の言傳ふる故事にこそあらめと答へしに主悦びて書き付けてよとして乞はる否こは口にのみいへる事なりとて辞むべからねば筆とれるになん
    旗さゝげわれも踊らん若からば
    神の御庭にむかし忍びて
      明治三十六年十月 藤原棄譽志
      土居之内裏若進曾  明治三十六年十月建立

社頭石碑



忌宮神社

「蚕種渡来之地」記念碑
碑文
蚕種渡来之地
大日本蚕糸曾曾頭正三位勲三等子爵
牧野忠篤 題字
謹ミテ按スルニ人皇第十四代仲哀天皇即位二年 天皇ノ熊襲征討ノ為穴門國豊浦津ニ 行幸アラセラレ此ノ地ニ 皇后ヲ奠メタマフ之ヲ穴門豊浦宮ト稱シ奉ル今ノ山口縣豊浦郡長府町鎮座國幣小社忌宮神社ノ神域ハ即チ其ノ舊阯ナリ三代實録二拠レバ仲哀天皇即位四年奏ノ始皇十一代ノ孫功満王入朝帰化シ珍寶蚕種ヲ奉献シタリト云フ是レ異邦蚕種ノ初メテ我カ國ヘ渡来セシコトヲ證スル文献ニシテ而シテ其ノ地ハ實ニ此ノ神域ニ外ナラス頃者山口縣蚕糸業者並ニ有志者胥謀リ此ノ由緒アル地ヲ記念シ之ヲ後昆ニ伝ヘンカ為茲ニ碑ヲ建テ其ノ由来ヲ勒スト云爾
昭和八年十二月
大日本蚕糸會山口支會長正二位勲四等 菊山嘉男 撰
副碑
わが国養蚕の全盛期ともいうべき昭和七年の全国養蚕農家は二百二十万戸余 蚕種製造戸数約六千製糸工場七万余で これらの関係者は一千万人を超え 世界の生糸の総生産額約四万五千トンのうち七割をわが国が生産し 生糸は対外貿易の首位を占めた 時あたかも「山口県蚕糸業史」 の編纂に際し「三代実録」等に見える蚕種渡来のいにしえを偲び その恩恵を感謝し 大日本蚕糸会山口支会長 山口県製糸業組合長 山口県蚕種業組合長 山口県繭市場連合会長 山口県桑苗同業組合長 山口県養蚕業組合連合会長をはじめ 県下各部養蚕業組合長 地元長府の有志らの発起により記念碑の建立が計画され 募金総額三千八百円に対し七千三百九十円の浄財が寄せられ一部は維持基金にあてられた 碑の高さは約六・三メートル 重さ三十七トン余で 自然石では山口県一を誇り 題字は大日本蚕糸会々頭牧野忠篤 碑文は大日本蚕糸会山口支会長菊山嘉男知事 工事は山口市の石材店藤井百合吉で 昭和八年十二月二日 忌宮神社宮司松島浅之助以下全神職の奉仕により盛大に除幕式が執り行われた 戦後の世相混乱期に碑文の銅板が甚しく損傷されたため 今回 山下技研 山下勇二社長の篤志と中村石材店の協力により 御影石をもって復元するにあたり 建碑の概要を記して当時の偉業を顛彰する次築である
昭和六十一年三月  忌宮神社宮司 宮崎義敬

社頭掲示板



忌宮神社

当社は、第14代仲哀天皇が九州の熊襲ご平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮を興して7年間政務をとられた旧趾にあります。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられましたが、1年にして崩御せられたので神功皇后は喪を秘して重臣武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂(仮埋葬)せられました。
そして皇后はご懐妊中ながら、熊襲を煽動していた新羅征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられました。これが当社の起源です。

公式HP



忌宮神社

仲哀天皇と神功皇后は、九州の熊襲平定のため都から西下された。そのため本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝の当地にご滞在になり、斎宮をたて神祗を祭られたのが、当社の起りとされている。のち奈良時代の神亀5年(728)、神託によって筑前香椎宮より、神功皇后の神霊を勧請して中殿に奉斎した。相殿として、仲哀天皇・応神天皇をお祀りしたと伝えられている。また社伝によれば、香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿祢に命じて海路より穴門(長門)に遷されたという。この殯斂の地が、神社の南方500mの丘にある。天皇の神霊を鎮祭したこの御社を、行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって、聖武天皇の御代に、神功皇后を奉斎して忌宮と称した。さらに、応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社であったが、中世の火災によって、豊浦宮と豊明宮が焼失したため、両社を忌宮に合祀したという。平安時代の貞観15年(873)、従五位上の神階が授けられ、『延喜式』神名帳に記載される式内社となる。鎌倉時代の弘長元年(1261)、神諧が従三位に昇叙。明治6年(1873)県社に列せられ、大正5年(1916)に国幣小社に昇格する。建立以降、兵乱や火災又は老朽により、社殿の消失がみられる。そのため、天徳3年(959)・鎌倉時代の正和4年(1315)・南北朝時代の元弘元年(1331)・興国4年(1343)・江戸時代の寛文11年(1671)に、造営や改築が行われている。現在の社殿は、明治6年(1876)の火災により、翌明治7年(1877)6月に造営されたもので、それ以前に比べると規模が小さくなっている。

山口県神社庁



忌宮神社

周防灘の満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ)の二島は当社飛地境内で、神功皇后新羅ご凱旋の後、霊験あらたかなる満珠・干珠なる如意の珠を海に納めたところ島になったという。
城下町長府の中心に鎮座される忌宮神社、その境内は清らかな白砂が敷き詰められ、皇后お手植えの逆松(根幹)や宿禰公孫樹(すくねいちょう)など往時を偲ぶ事ができる。
当社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のために西下、穴門(長門)豊浦(とよら)宮を起こして七年間政務をとられた旧址にある。天皇はさらに筑紫の香椎に進出せられたが、一年にして崩御されたので、神功皇后は御遺骸を豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂(ひんれん)(仮埋葬)せられた。そして皇后はご懐妊中ながら、熊襲を煽動していた新羅征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。これが当社の起源である。そのあと、皇后は皇子(後の応神天皇)をご安産になった。
くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」と称し、三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、中世の火災により中殿の忌宮に合祀したため次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。古来より、文武の神(勝運の神)として歴朝の尊崇篤く、また安産の神として庶民より多くの信仰を受けてきた。 数方庭(すほうてい)祭(まつり)(山口県無形民俗文化財)とは、豊浦宮に新羅の塵(じん)輪(りん)が熊襲を煽動して攻め寄せたが、天皇御自ら弓矢を取って塵輪を射倒された。これを見た賊どもは色を失って退散した。皇軍は歓喜の余り矛をかざして塵輪の屍の周りを踊り回ったのが数方庭の起こりと伝えられ、毎年八月七日より十三日まで毎夜、男子は幟、女子は切籠と呼ぶ灯篭を吊るした笹竹を持って、鉦・太鼓に和して鬼石の周りを踊り舞う。天下の奇祭と呼ばれる勇壮かつ典雅な行事である。

由緒書



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