鎮岡神社
しづめがおかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鎮岡神社 陸奥国 江刺郡鎮座

   【現社名】鎮岡神社
   【住所】岩手県奥州市江刺区岩谷堂五位塚179
       北緯39度10分26秒、東経141度11分36秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】5月28日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】明和5年(1768)御社殿修築
       天保6年(1835)再建奉遷
       明治6年村社
       明治40年神饌幣帛料供進社指定
       昭和20年11月8日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所・社務所

   【境内社】

この地は、平泉に進出する前の藤原清衡の居住地のあった場所。
平泉文化との関係が深く、代々の藤原氏の崇敬が篤かった。


鎮岡神社

延喜式内社 鎮岡神社由緒
 当神社御祭神は天の下造らしし大神にして、神事を主宰し、農耕を保障する穀神として国民の生業を守護し給う大己貴命(大国主神=大黒さま)である。
 律令国家当時は、神階を授かり幣帛をあずかる官社として保護が厚く、「延喜式」の神名帳に記されている神社である。(陸奥国百座内 岩手県十四座)
 とりわけ前九年、後三年の役のあと亘理権大夫藤原経清と安倍頼時の娘との間に生れた藤原清衡公は、篤くこの神を尊崇し、豊田城を構えた際当神社の御社殿を修築し、天下泰平武運長久祈願のしるしとし、荘園十町歩を献奉、宝庫を建立、武具一式を奉納せしが、のち兵火で炎上したと伝えられる。
 その後、時経りて天明5年秋、三河の国の国学者菅江真澄が当神社にぬさたいまつらんと訪れ、今当神社の御神歌と奉る「かしこしな あらふるとても ぬさとらは こころしつぬの 岡の神籠」は、真澄遊覧記「委波氏廼夜座」に記されている。
 明和5年御社殿修築、天保6年再建奉遷、明治6年村社に列格され、その後、御神威を仰ぐ県内外の氏子崇敬者崇信の誠を捧げし寄進をもって、境内を拡張整備、昭和20年11月8日郷社に列せられる
鎮岡神社社務所

社頭掲示板



鎮岡神社

神社名 延喜式内 鎮岡神社(通称ぢんがおか)
御祭神 大己貴命(大国主命)
鎮座地 江刺市岩谷堂字五位塚179番地
創建 胆沢城築城(802)以前
給社格 郷社
由来
奥州藤原文化の礎を築いた豊田城主の藤原清衡公が社殿の修築荘園献奉宝庫建立等々信仰篤かった。のち兵火で焼失したが天保6年修築奉遷
御神歌
かしこしな あらぶるとても ぬさとうば
 こころしづめの 岡の神籬
菅江真澄

社頭掲示板



鎮岡神社

安永風土記によれば称徳天皇(764〜)の御代に勧請されたとある。「延喜式」神名帳に記載されている延喜式内社であり、律令国家当時は、神階を授かり、祈年祭には国幣を預かる官社であった。
 鎭岡の社名は、「天神地祇八百万神遥拝所岩清水八幡宮公文所」と表記し版行された軸物、奥の細道随行した河合曽良「旅日記」の行脚予定路の中などに散見する。  とりわけ、前九年・後三年の役の後、亘理権太夫経清と安倍頼時の娘との間に生まれた藤原清衡公は、神仏信仰厚く、豊田城を構えた際、当神社の社殿を修築、天下太平・武運長久祈願のしるしとして荘園献納、宝庫を建立、武具一式を奉納したと伝えられる。
 菅江眞澄(三河国・国学者)が天明5年(1784)から3年間岩手を旅行した。その記録である日記「けふのせはのの」「岩手の山」に当社の記述がある。
 廃藩置県で江刺県を置いた際、郷社に列せられたが、後、一郷一郷の制により、明治6年村社となり、昭和20年再度郷社に列せられる。

岩手県神社庁



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