舞草神社
まいくさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】舞草神社 陸奥国 磐井郡鎮座

   【現社名】舞草神社
   【住所】岩手県一関市舞川大平 5
       北緯38度58分58秒、東経141度9分53秒
   【祭神】伊弉册命 稻倉魂命
   【例祭】4月17日 例祭 8月17日 秋季例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】大同2年(807)創建
       仁寿2年(852)8月7日従五位下
       天正2年(1574)2月27日焼失
       文禄元年(1592)3月12日野火火災
       明治4年廃仏毀釈で神社として復興
       明治8年5月7日村社
       明治9年(1876)9月17日随身門を残し社殿火災焼失
       大正2年11月17日本堂造営
       大正9年神輿堂造営
       昭和12年3月16日拝殿新築
       平成元年神饌殿、神鐘楼建立

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは山頂に社地があつた

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・幣殿・社務所・神輿堂

   【境内社】
   【別当】吉祥山東城寺

舞草山すなわち白山嶽の山腹に鎮座する。もとは山頂に社地があつたという。(東方500m)
この山には処々金屑があり、刀工三條宗近の鍛刀跡といはれている。ここに「日本刀の祖舞草刀」と称される刀を鍛える技術が盛んになつたのは、この地が良質の鉄鉱石を産出したからであろう。
式内社調査報告は 舞はにんべん+舞(Unicode U+511B)を使用している。


舞草神社

延喜式内 舞草神社
 一、祭神 蒼稲魂命 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
由緒
この神社は仁壽2年8月従五位の下を授けられ陸奥百座・磐井二座の中の一座で延暦年間坂上田村麿東征の砌りこの社殿に聖観音を勧請、当時「きば寺」と呼ばれていた。佛教が盛んになるに伴い僧房も漸増し、平泉全盛のころは二十四院を数え観音堂を囲んで散在するに至ったと言われ、羽場の観音とも称せられていた。
この吉祥山東城寺は奥州三十三番のうち二十七番札所として栄えたが、明治4年非佛棄却に逢い神社として復興し同年10月郷社に定められ明治8年村社に定められた。大正2年11月熊野神社を合祀し今日に至っている。
祭日 4月17日・8月17日

社頭掲示板



日本刀発祥の地

舞草鍛冶遺跡
 舞草に鍛冶がいて刀剣を鍛えていたことは鎌倉時代に書かれた京都の観智院に伝わる観智院本をはじめ数多くの刀剣誌に書かれていますがその跡がどこなのか今もなお判明していません。
 昭和42年郷土史研究家佐藤節郎翁が白山岳附近で鉱滓を発見したことから岩手大学板橋教授によって調査が実施され、その結果鍛冶にとって不可欠の古代のタタラ(製鉄)跡を発見学術的な裏付けもされました。
 舞草鍛冶がいつ頃からこの地ではじめられたかは不明で、平安時代中頃と推定されています。
 くわしく解明するためには今後の調査によるところです。

社頭掲示板



舞草鍛冶

この舞草の地は平安時代より刀鍛冶が集団で住まいした所と伝えられ、舞草刀は日本刀が直刀から湾刀へと移り変わる時期の初めの頃とされています。
 刀剣に関する代表的な古伝書に鎌倉時代に書かれた観智院本銘尽がありますが、この中でも舞草鍛冶の刀工が数多く記述されており、その場所は、ここから直線距離で北西約700mの白山岳周辺にあったと伝えられております。舞草鍛冶は往時の陸奥国にあって武器づくりの集団として欠くことのできない存在でした。

社頭掲示板



舞草神社来歴

養老2年  718 羽場白山岳に白山妙利社勧請祭神菊理姫命陸奥県守多治見直人建立と伝える
延歴18年 799 吉祥山に馬頭観音勧請坂上田村麻呂東夷征伐の祈り祈願の為吉祥山東城寺を建立する
吾祥3年  850 慈覚大師東北巡陽の祈り吉祥山に錫杖を止め多羅葉の木にて四尺二寸の聖観音像を彫刻安置すと伝う
仁寿2年  852 往時東山舞草小字穴の倉に鎮座する稲倉明神社舞草神に従五位下を授かる
延長5年  927 既に延喜式神名帳に登載の舞草神社である
承平    931 白山社跡近くに金鋳神社跡がある舞草安房以来二神を深く信仰してその守護により無双の名剣を代々約三百年間に亘り作り続けたと伝えている
天正2年  1574 吉祥山東城寺野火の為に堂塔社炎上す
文禄元年  1592 吉祥山一山の堂社宇僧坊同年3月12日野火為炎上する神社直属の三枝称宜これを深く嘆き御霊を穴の倉に鎮座する稲倉神社に遷座して稲倉明神と称える
寛永19年 1642 往時吉祥山は羽場村なるもお村直しの令により羽場村の一部を合併して舞草村と相成る
寛保3年  1743 御上より稲倉明神に舞草神社稲倉大明神の神号を賜る
明治2年  1869 神仏混淆禁止令により吉祥山東城寺より聖観音像並びに仁王像を別当宅地内の大悲閣内に安置する
明治4年  1871 同村穴ノ倉鎮座の稲倉大明神社より10月26日御霊を当観音堂地に遷座延喜式内舞草神社と称える
明治9年  1876 当年9月17日舞草神社三問四面の堂炎上随身門を残し焼失する
明治39年 1906 舞草神社本殿拝殿落成
大正2年  1913 同村川岸鎮座の熊野神社を合祀
昭和12年 1937 本拝殿改築する
祭神 伊邪那岐尊 白山姫神 倉稲魂命 熊野大神
祭日 歳旦祭4月17日 8月17日
延喜式内舞草神社

社頭掲示板



舞草鍛冶遺跡

日本刀の完成にあたって、欠くことができなかった奥州の刀剣、それが舞草刀(もくさとう)です。鉄落山(てつおちやま)と別称される白山岳を有するここ舞草はそのふる里と考えられています。
舞草鍛冶の活躍は、京都・観智院に伝わった現存最古の銘尽(めいじん)をはじめとする数多くの刀剣書、また、説話集や物語など、古くは平安時代から語りついでいます。
この鍛冶遺跡の確定を目指し、岩手大学や一関市教育委員会は地元と一体になって発掘調査を実施し、これまでタタラ跡や輔(ふいご)の羽口(ほぐち)、鐵(やじり)、おびただしい鉄澤(てっさい)の発見など数々の戌果をあげています。今後はより一層の解明が進むものと期待されています。
平成15年3月
一'関市教育委員会

社頭掲示板



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