熱日高彦神社
あつひたかひこじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】熱日高彦神社 陸奥国 伊具郡鎮座

   【現社名】熱日高彦神社
   【住所】宮城県角田市島田鳥内1
       北緯37度56分16秒、東経140度49分58秒
   【祭神】迩迩杵命 日本武命
       (配祀)鹽土老翁命 大己貴命 少名彦名命
       (合祀)神速須佐能男命 菊理比賣命 熊野櫛御食野命 伊弉諾命 水波廼女命
       火産靈命 興津彦神 興津姫命 倉稻魂命

   【例祭】4月6日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】日本武尊この地に瓊々杵命を祀る
       景行天皇の勅で瓊々杵命及び日本武尊の神霊祀る
       明治5年10月郷社
       同40年3月神饌幣帛料供進指定神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古の鎭座地は桜井川をはさんだ向い側の丘陵上
        元禄の頃までに現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 熱日高彦神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・幣殿・神饌所・神輿殿・手水舎

   【境内社】蚕養嶺神社

往古の鎭座地は桜井川をはさんだ向い側の丘陵上の「御子塚」(「御藏林ともいう)であり、後、現在の丘陵上の現社殿手前に移祀され、更に、元禄の頃までに現在地に遷座されたという。
当社のご神体は、「たま」の木で作られ、兵児帯を付けていることから氏子の間では、幼児に兵児帯をつけないとか、「たま」の木を薪や炭にしない風習がある。


熱日高彦神社

1.創祀
 社伝では、神皇12代景行天皇の皇子日本武尊(倭建命)が、勅命を帯びて東国に向かわれたとき、伊具の地に至り、最も聖地を選んで、 当地に初めて、大和朝廷の祖神である邇爾杵命をお祀りしたと伝えられております。
 これは、伊具郡が大和朝廷に帰属したことを意味するものであります。
 尊が帰途、薨去に及び、帝は皇子の幸跡を偲んで、遣いを東国に馳らせ、当所には、 社殿を建て日本武尊をも併せて祀らしめました。
2.延喜式内神社(式内社)
 平安時代の延長5(927)年完成の延喜式神名帳には、陸奥国百座の内、伊具郡に小社二座ありますが、その内の一社が熱日高彦神社となっております。 小社は国幣社ですから、陸奥国司から幣帛が奉じられた神社であります。
 時の帝醍醐天皇から、如意峰で鋳させた神鏡を賜ったと伝えております。
3.伊具郡総社
 江戸時代、当神社は伊具郡総社とされていた事が判ります。
 総社とは、その管内の神社のご祭神を併せ祀った神社ということで、つまりはこの神社から、郡内全体の神社を拝める、そう言う神社であることを意味します。
 因みに、陸奥の国には陸奥総社があります。
 官衙には所管する区域内の神社を総括する神社、総社を作っていたようです。
 当神社から西に約四キロのところに、天平にさかのぼる伊具郡衙といわれる郡山があります。
 江戸時代に代官所のあった金津は、北に約三キロです。
 春の大祭には、神輿が渡御され、藩から、警護の足軽四人派遣されたとあります。
 神輿も大谷の香取神社、小斎の鹿島神社が当神社に集まり、三基が石川口を練り歩いたと、伝えられております。 今は香取神社がお供しております。
4.郷社
 明治5年、伊具郡(丸森町、角田市)で唯一の郷社に列せられ、例祭時には、郡庁から献幣使(神様にお供えするお金を持った使者=町村長などが装束を着けて当った)が参向し、盛大に行われました。
 郡内の出征兵士の武運長久祈願をはじめ、時々の臨時祭も、当神社で行われました。
 大東亜戦争終戦までの社殿内は、諸祈願に関し、また復員軍人などの奉額・奉納品で立錐の余地もないほどでした。
5.戦後
 終戦後、GHQ指揮下、他の神社と供に、社格が除かれて幣帛料がなくなり、三町歩余りの水田をはじめ農地をほとんど失い、経済基盤が失われました。
 GHQにより、神社信仰の弱体化が図られ、一方、宮司の戦死と重なって、神社の経済が著しく窮迫いたしました。
 神域の樹木は杉・樅・桧・榧・樫などですが、杉や樅の数百年の大木が、戦争末期の供木に端を発した伐採の流れの中で、御神木売却を以って神社経済の窮地をしのいだ一時期がありました。
 そのことで、神域は、古木が社殿と参道沿いに、わずかに残るだけになってしまいました。
 こころある氏子が、財源がなければ氏子の負担によって経営する事を呼びかけて、維持費を献じてもらう形となって今日に至っております。
 湯たて神事、夏越祓いなど、独自の神事は、この期間に中止されたままで、現在再興を図っているところであります。
信仰
1、タマノキと兵児帯
言伝えではご神体がタマノキで出来ているという。
それで、氏子はタマノキを薪や炭にしない。 またそのお姿が、兵児帯をしているため、氏子の子弟の着物には、 兵児帯をつけないという慣わしがある。
2、取り子
取り子とは、弱く生まれた子、兄弟が弱くこの子だけでも丈夫にというときに、 神様の子どもとして取り上げてもらうことです。 ご祭神が健やかで、見目かたち麗しく、聡く、力が強くあられたことから、 その力にあやかるため、取り子がとても多くありました。
殊に亘理、相馬などからの信仰がありました。
3、治世・武神
邇々杵命は日本の国を最初に統治された神様であり、 倭建命は建国した日本の国家統一のため東西に奔走され、 功績のあった神様ということで、古くから政治の神様でありました。
古代には国幣社、近世には総社、近代には郷社と位置付けられ、献幣使が参向して氏子、国の安泰を祈り続けてきたのであります。 現在も政治を志す人達の参詣があります。
武神・軍神として、戦勝祈願・武軍長久祈願に参詣することが多くありました。そのため、社殿内一杯に、敵兵から戦利した品が奉納されておりました。
しかし、記紀にはご祭神が大きな戦いをされた記述はなく、極めて知的に柔軟な手法で目的を果 たされています。
平和裏に解決する事を目指す、やはり、政治の守神とするべきでしょう。
4、鎮火 5、農業神
古くから鎮火(火伏せ)の神様としての信仰があります。
倭建命が、草薙剣と火打石で火難を逃れた事故によるもので、丙午の年や、火早い年には、 湯たて神事や獅子舞が奉納されたといいます。 日本武尊がお祭りした当神社の地は、それ以前は、当地方の産土神の斎場で あったはずであります。
主祭二神を頂きながらも、この神社には、併せてこの土地の産土神がお祀りされています。
またこの土地に住む人々の氏神として、祖霊神の依り所でもあります。 毎年農業神・産業神・産神として、各家に来臨される神々でもあるのです。
6、交通安全 7、諸々の神
道祖神として仰ぐ猿田彦命を案内役として降臨された邇々杵命、 筑紫から陸奥までを広く駆け巡らされた日本武尊、いずれも旅行の神様、 交通の神様として、常に信仰を集めております。 総社として、郡内のすべての神社をも拝むことが出来ますし、 合祀神社・境内神社などから諸々のご神徳を持っている神様ということになります。
考証
1、社号 2、位置
「熱日高彦」は、やはり大和朝廷系のお名前であります。
「天津日高日古番能邇々芸命」というご祭神名と関わるものかもしれませんが、 伊具郡の群衙が真西より少し北に掛かって在りますので、関わりがあるというのが定説でした。 たしかに彼岸の朝、郡山の所に立つと、ちょうど神社の上から日が昇ります。
日が高く昇っていく姿に、国の万歳掛けて栄える事を重ねて付けられた名前かともとれます。 伊具盆地の東に当神社が在り、西には斗蔵(神社、寺)があります。
当神社は西向きに建っていた可能性がありますし、斗蔵神社は東向きに立っており、 いずれも、中央にある郡衙のほうを向いていたことになります。
3、考古資料 4、地名など
現在の社地に、小皿やカワラケ状を中心とした、土師器が出土します。
祭器と思われます。
またこの谷 (鳥内囲)には須恵の釜がありました。 神社のある、西から東に上る谷の部分は「鳥内」(囲い)になっています。 境内という意味の「鳥居内」が、長い間に詰まってしまったものです。
かつてこの谷を登る道を参道としていたものと思われます。
谷の入り口に寺があったといわれますし、目黒家があります。 寺と神社の中間辺りでしょうか、禰宜屋敷といわれていたところがあります。
神社の南に伸びる200mの参道は、山家家に続き、 一の鳥居の50m南に、皇子塚と呼ぶ塚がありました。
鳥居から700mほど東に大和橋があって、その川下が、大和橋囲いになっています。
鳥内囲いの南側は日高下囲いになっています。 いずれもご祭神に関わるお話があります。

公式HP



熱日彦神社

人皇十二代景行天皇の御代、第一皇子である日本武尊が勅命を受けて東征の際当地に到り、古来の聖地であった此の大森山の山懐に祭場を設け、皇祖廼邇邇杵命を祀って、当地が平和であることを祈った。日本武尊が都への帰途に薨去されたので、天皇は勅して(命じて)此処に邇邇杵廼命に併せて日本武尊の神霊を鎮祭せられたと社伝として伝えている。後に素戔鳴命、鹽土老翁命、大己貴神、少彦名命の四神を併せて祀っている。また明治42年4月白山社を館島田から、熊野神社を桜井から、水神社を清水田から、館稲荷神社を館島田から合祀して、菊理媛命以下八神を祭神に迎えられた。古来伊具郡惣社とされ、明治5年郷社に列せられており、郡内全ての神社のご祭神を拝することの出来る神社とされた。平安時代には、南方の小斎に鹿島神社(武甕槌命)、北方の尾山大谷に香取神社(経津主命)が鎮座していて、廼邇邇杵命が他界に降臨されるに際して両神が陪従せられたことによる配座とも伝えられている。時代が下って日本武尊の東征に際しては、香取神宮・鹿島神宮との関わりあり、当地の三社においても神事の上で深い関わりが残っている。創祀やご祭神に関わる伝えは以上のとおりであるが、当社は日本武尊東征以前にも産土神の聖地であったはずであるから、創祀の年代は特定不可能というべきであろう。平安時代に入って延長5年に延喜式が完成しているが、その中の神名帳には「小社」として当神社の記載あり、江戸に下って「伊具郡惣社」として郡内に神符ヲ頒布していた記録もある。当時(江戸時代)神輿渡御などの神事の際には、藩主の命を受けた金山本郷中島氏は、足軽4人を警護に付けたと記されている。当社では「神輿渡御には山家が来ないうちは発幸出来なかった。」と言い伝えていることから、派遣されたのは山家家を中心とする一団と思われる。明治3年郷社に列せられ、同40年3月幣帛供進指定社となる。通常「お日高さん」と親しみを以って呼ばれていて、享保に奉納された社額には「日宮」とある。安永風土記書上にも「日神社」の名で報告している。

宮城県神社庁



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